できごと

綿繰り機

The cotton gin
AD1793年
重要度 5
大英帝国ルパート・ランドスペイン帝国ヌエバ・エスパーニャ副王領ルイジアナヌエバ・グラナダ副王領アメリカ合衆国ネーデルラント連邦共和国アメリカ合衆国ケベックスペインイギリスイギリス領ギアナAcadian Peninsula (UK)AD1793年サヴァナ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1793年の版図を描いています(14勢力)。

概要

内陸で育つ短繊維の綿は、種が繊維に固く絡む。手で取ると、一人が一日に一ポンドしか処理できない。イーライ・ホイットニーの装置は、回転する円筒の鉤で繊維を引き抜き、種を残す。処理量が数十倍になった。結果は、彼が予期しなかったものである。綿花が儲かる作物になり、南部の耕地が西へ広がり、そして奴隷の需要が急増した。1790年に約70万人だった奴隷は、1860年に約400万人になる。労働を減らす機械が、奴隷制を延命させた。

場所

サヴァナ
32.08°N -81.09°E · アメリカ・ジョージア州

関わった人(1)

イーライ・ホイットニーAD1765年12月8日–AD1825年1月8日 · 作った

本文

綿には、大きく分けて二つの種類があった。一つは長繊維の綿で、ジョージアやサウスカロライナの沖に浮かぶ島々の名を取ってシーアイランド綿と呼ばれた。繊維が長く、種が比較的外れやすいので、二本のローラーの間に綿を通して種を落とす、インドなどで古くから使われてきた簡単な装置で処理できた。ただ、この綿が育つのは海岸近くの限られた土地だけだった。

もう一つは短繊維の綿で、内陸の広い範囲で育つ。ところが、この綿の種は緑色の産毛のような繊維に固く絡みついていて、ローラーに通すと種が潰れ、油が繊維を汚してしまう。手で一粒ずつ取り外すしかなかった。

コネチカット州ハムデンのイーライ・ホイットニー・ミュージアムで展示されている19世紀の綿繰り機モデル
コネチカット州ハムデンのイーライ・ホイットニー・ミュージアムで展示されている19世紀の綿繰り機モデルWikimedia Commons Tom Murphy VII · Public domain

手作業では、一人が一日にほどけるのは1ポンド(450グラムほど)の綿花にすぎなかった。これでは、内陸の綿は商品にならない。1790年代の初め、アメリカ南部の農園主たちはタバコや藍や米を育てていたが、その値段は下がりつつあった。奴隷を使う農園の経営は行き詰まり、奴隷制はやがて自然に衰えていくのではないか、と考える者さえいた。ヴァージニアには、奴隷の解放を論じる声もあった。

1793年、イェール大学を出たばかりの27歳のイーライ・ホイットニーは、家庭教師の職を求めて南部へ向かった。船でジョージア州のサヴァナに着き、独立戦争の英雄ナサニエル・グリーン将軍の未亡人キャサリン・グリーンと知り合って、彼女の農園マルベリー・グローヴに滞在することになった。そこで彼は、近所の農園主たちが、短繊維の綿から種を外す機械さえあれば内陸の綿が売れるのに、と話しているのを聞いた。器用なホイットニーは、わずか十日ほどで試作機を作り上げたと伝えられる。キャサリン・グリーンが重要な助言をしたという話も残り、彼女こそ本当の発明者だという主張もあるが、確かな証拠は無い。

"The First Cotton Gin"1869年のハーパーズマガジンの彫版。イーライ・ホイットニーの発明前のローラー綿繰り機が描かれている。
"The First Cotton Gin"1869年のハーパーズマガジンの彫版。イーライ・ホイットニーの発明前のローラー綿繰り機が描かれている。Wikimedia Commons William L. Sheppard · Public domain

仕組みは単純だった。細いすき間の並んだ格子の向こうに、針金の鉤やのこぎりの歯を並べた円筒がある。格子の手前に綿を入れて円筒を回すと、鉤が繊維を引っかけてすき間から引き抜く。種は大きすぎてすき間を通れないので、手前に残る。

もう一本の回転するブラシが、鉤に付いた繊維を払い落とす。手回しの小さな機械でも、一日に50ポンドほどの綿を処理できた。馬や水車の力で大きな機械を回せば、処理できる量はさらに桁違いに増えた。

イーライ・ホイットニーの最初の綿繰り機の特許(1794年3月14日)
イーライ・ホイットニーの最初の綿繰り機の特許(1794年3月14日)Wikimedia Commons Eli Whitney · Public domain

この単純さが、ホイットニーの運命を決めた。機械は簡単すぎて、鍛冶屋なら一目見れば作れてしまう。彼は1794年に特許を取ったが、南部中で真似をした機械が次々に作られた。しかも彼と共同経営者は、機械を売るのではなく、農園主の綿を自分たちの機械で繰り、その一部を手数料として取るという商売を考えた。

農園主たちは反発し、自分で機械を作った。ホイットニーは特許を守るために60件を超える訴訟を起こしたが、南部の陪審は地元の農園主に有利な判断を下し続けた。事業は数年で行き詰まり、特許の延長も認められなかった。世界を変えた発明で、彼はほとんど儲けられなかった。

しかし、機械そのものの影響は、発明者の思惑をはるかに超えていた。種を外す手間が消えると、内陸の短繊維の綿は一気に儲かる作物になった。アメリカの綿の輸出は、1793年には50万ポンドほどだったものが、1800年には約1800万ポンド、1820年には1億ポンドを大きく超えた。1860年の生産量はおよそ20億ポンドに達し、アメリカは世界の綿の大半を供給するようになった。その多くは大西洋を渡り、産業革命のただ中にあるイギリスのランカシャーの紡績工場へ送られた。

産業革命に関わる図版:Powerloom weaving in 1835
産業革命Wikimedia Commons Illustrator T. Allom, Engraver J. Tingle · Public domain

ここに、この機械の本当の帰結があった。種を外す作業が速くなると、仕事全体の速さを決めるのは、畑で綿の実を摘む作業になった。そして綿摘みは、機械にできなかった。綿の収穫が機械で行われるようになるのは、20世紀の半ばのことである。

摘むには人の手が要る。綿が儲かるようになると、農園はジョージアからアラバマ、ミシシッピ、ルイジアナ、そしてテキサスへと西へ広がり、「綿の王国」が生まれた。その広い畑のすべてで、奴隷の労働が求められた。

数字は、はっきりとそれを示している。1790年のアメリカには約70万人の奴隷がいた。1810年には約120万人、1860年には約400万人になった。大西洋を越えてアフリカから人を運ぶ奴隷貿易(大西洋奴隷貿易)は、1808年に法律で禁じられていた。

大西洋奴隷貿易に関わる図版:Slave Auction Ad
大西洋奴隷貿易Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

つまり、この増加の大部分は、アメリカの国内で奴隷として生まれた人々である。そして、タバコの値が下がって奴隷が「余った」ヴァージニアやメリーランドから、綿の畑の広がる深南部へ、人が売られて送られた。この国内の奴隷の取引で、およそ100万人が強制的に移されたと推定されている。家族は引き裂かれ、親と子、夫と妻が別々の買い手に売られた。

労働を減らすはずの機械が、労働を強いられる人の数を増やしたのである。綿は南部の富の源となり、南部の政治家は奴隷制を守ることに一層こだわった。綿と奴隷制をめぐる南北の対立は、やがて1861年の南北戦争へと行き着く。60万人を超える死者を出したこの戦争のさなかに奴隷解放宣言が出され、戦後、奴隷制は憲法の修正によって廃止された。

南北戦争に関わる図版:Battle of Gettysburg, by Currier and Ives
南北戦争Wikimedia Commons Nathaniel Currier and James Merritt Ives · Public domain

綿繰り機で報われなかったホイットニーは、1798年、合衆国政府からマスケット銃1万挺を作る契約を取った。彼が売り込んだのは、どの銃の部品も他のどの銃にも合うように作る、部品の互換性という考えだった。1801年には、ワシントンで政府の要人たちを前に、ばらばらにした銃の部品を組み合わせて組み立ててみせたと伝えられる。もっとも、この実演はあらかじめ合わせておいた部品を使ったものだったという指摘が、のちの研究にある(部品を入れ替える)。

2年の契約だった銃の納入には、実際には10年近くかかった。現存する彼の銃を調べると、部品には手で削って合わせた跡があり、完全な互換性は実現していなかった。それでも、交換できる部品で大量に物を作るという考えをアメリカに広めた一人として、彼の名は残った。実際にそれを形にしたのは、スプリングフィールドやハーパーズ・フェリーの国営の兵器工場で働いた技術者たちである。

ジャレル・プランテーションの綿繰り機
ジャレル・プランテーションの綿繰り機Wikimedia Commons Dsdugan · CC0

ホイットニーは、南部の農園主を助けるつもりで、ありあわせの材料で小さな機械を作った。その機械が、70年後には数十万の死者につながる歴史の流れを動かした。発明は、それを作った人の意図とは関わりなく、それを使う社会の中で独り歩きする。綿繰り機は、そのことの最も分かりやすい例の一つとして語られている。

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