人物

ボリス・エリツィン

Boris Yeltsin
AD1931年2月1日 – AD2007年4月23日(享年76)
ロシア重要度 5

概要

ウラルの農民の子。建設の技師。スヴェルドロフスクの党書記。1987年、ゴルバチョフに逆らって落とされた。1991年6月、ロシアの大統領に直接選挙で。8月、戦車の上。12月、ソ連を終わらせた。「ショック療法」。1993年、議会を砲撃。酒。1999年大晦日、プーチンに渡した。

関わったできごと(2)

8月クーデターAD1991年8月19日 · 戦車の上でソ連の解体AD1991年12月25日 · ロシア大統領

本文

1931年2月1日、ウラル山脈の東、スヴェルドロフスク州の村ブトカで、農民の家に生まれた。ヨシフ・スターリンの農業集団化のさなかで、祖父は富農として土地を奪われて追放され、父も1934年に逮捕されて労働収容所に送られた。一家はバラックの一部屋で暮らした。少年時代のボリスはけんか早く、教師にも逆らう子で、戦争中に盗んだ手榴弾を分解しようとして爆発させ、左手の指を2本失った。

ボリス・エリツィンの肖像
ボリス・エリツィンの肖像Wikimedia Commons Presidential Press and Information Office · CC BY 4.0

ウラル工科大学で建築を学び、バレーボールの選手として活躍した。卒業後は建設現場の監督から始めて、住宅やコンビナートを次々に建てる有能な技師になった。1961年に共産党に入り、1976年、45歳でスヴェルドロフスク州の党第一書記となった。州を治めた10年間、彼は精力的で、ぶっきらぼうで、現場に顔を出す指導者として知られた。1977年、党中央の決定を受けて、皇帝ニコライ2世の一家が銃殺されたイパチェフ館を取り壊させたのも、このときである。

1985年、書記長になったゴルバチョフに呼ばれてモスクワへ移り、年末にはモスクワ市の党第一書記に抜擢された。彼は路線バスに乗って通勤し、予告なしに店に行って行列に並び、腐敗した幹部を次々に辞めさせて、市民の人気を集めた。しかし1987年10月、党の中央委員会の総会で、改革(ペレストロイカとグラスノスチ)の歩みが遅いと批判し、保守派の重鎮リガチョフを名指しで責め、ゴルバチョフをたたえる風潮にまで苦言を呈した。前代未聞の発言だった。彼は激しい非難を浴び、病院に運ばれたあと、病床から呼び出されて解任された。政治生命は終わったと誰もが思った。

ソビエト連邦人民代議員候補の選挙綱領を掲げたエリツィンの演説(1989年2月21日)
ソビエト連邦人民代議員候補の選挙綱領を掲げたエリツィンの演説(1989年2月21日)Wikimedia Commons ITAR-TASS · CC BY 4.0

ところが、党に逆らって失脚した男は、民衆の目には英雄に映った。1989年、ソ連で初めて複数の候補が争う選挙で、モスクワの選挙区から人民代議員に立ち、9割近い票を得て当選した。1990年5月にはロシア共和国の最高会議議長となり、ロシアの主権を宣言し、7月の党大会では演壇の前で党を辞めると告げて会場から歩み去った。1991年6月12日、ロシアで初めて国民が直接選ぶ大統領の選挙で、57パーセントの票を得て当選した。

2か月後の8月19日、ゴルバチョフを別荘に閉じ込めた保守派がクーデターを起こした(8月クーデター)。エリツィンはモスクワのロシア最高会議の建物、通称「白い家」に駆けつけ、前に止まった戦車によじ登って、クーデターは違法だ、市民はゼネストで抵抗せよ、と呼びかけた。この姿が世界に放送され、建物の周りには市民が集まってバリケードを築いた。クーデターは3日で崩れた。モスクワに戻ったゴルバチョフに、もはや以前の力は無かった。

8月クーデターに関わる図版:Boris Yeltsin 22 August 1991-1
8月クーデターWikimedia Commons ITAR-TASS · CC BY 4.0

12月8日、ベラルーシの森の中の狩猟用の別荘で、エリツィンはウクライナとベラルーシの指導者と会い、ソ連が国家として存在しなくなったことを宣言する協定に署名した。12月25日、ゴルバチョフが辞任し、ソ連は消えた(ソ連の解体)。

独立したロシアの経済を、彼は一気に市場経済へ切り替えようとした。1992年1月、若い経済学者ガイダルを中心に、物の値段を国の統制から一斉に外した。1年で物価は20倍を超え、年金や預金は紙くずになった。国営企業の株と交換できる証書が国民に配られたが、多くは安く買い集められ、のちに「オリガルヒ」と呼ばれる新興の大富豪が国の富を握った。

1993年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュと
1993年、アメリカ合衆国大統領ジョージ・H・W・ブッシュとWikimedia Commons Public domain

議会との対立は深まった。1993年9月、彼は憲法の規定を越えて議会の解散を命じ、議員たちは白い家に立てこもって彼の解任を決めた。10月、議会派の群衆がテレビ局を襲うと、彼は軍を出し、10月4日、戦車が白い家に砲弾を撃ち込んだ。公式の発表でも百数十人が死んだ。2年前に戦車の上から議会を守った大統領が、戦車で議会を撃ったのである。12月、国民投票で大統領に強い権限を与える新しい憲法が承認された。翌1994年12月には、独立を宣言したチェチェンに軍を送り、泥沼の戦争となった。

健康は酒と心臓の病でむしばまれていった。外国の訪問先での酔った振る舞いは、たびたび世界に報じられた。1996年の大統領選挙では、当初の支持率は1桁台に落ちていたが、オリガルヒの資金とテレビの力を借りて巻き返し、決選投票で共産党の候補を破った。選挙のあいだに心臓発作を起こしたことは隠され、11月に心臓のバイパス手術を受けた。1998年8月、ロシアは国の借金の支払いを止め、ルーブルは暴落した。

モスクワ騒乱事件で砲撃を受けたベールイ・ドーム。鎮火直後の1993年10月4日撮影。
モスクワ騒乱事件で砲撃を受けたベールイ・ドーム。鎮火直後の1993年10月4日撮影。Wikimedia Commons Bergmann at Japanese Wikipedia · CC BY 3.0

彼は後継者を探して首相を次々に替え、1999年8月、元KGBの情報機関員で、無名に近かったウラジーミル・プーチンを首相にした。12月31日の正午、テレビに現れて、自分は疲れたので去る、と突然辞任を告げた。国民の期待に応えられなかったことを許してほしい、とも述べた。大統領代行となったプーチンが最初に署名した命令は、エリツィンとその家族を訴追から守るものだった。

退任後は表舞台から退き、2007年4月23日、心臓の病のためモスクワで76歳で亡くなった。ノヴォデヴィチ修道院の墓地に葬られた。故郷に近いエカテリンブルクには、2015年に彼の名を冠した記念館が開かれた。彼の時代を、言論と選挙の自由があった「自由の90年代」と呼ぶ人もいれば、貧困と犯罪にまみれた「混乱の90年代」と呼ぶ人もいる。プーチンの政権は後者の見方を強調してきた。ソ連を終わらせ、ロシアに初めての自由な選挙をもたらし、そして自らの手でその後継を選んだ人だった。

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