廃刀令
概要
明治政府が、大礼服を着た者と軍人・警察官のほかは刀を身につけてはならないとした太政官布告。武士の身分の象徴を奪い、士族反乱の一因となった。
場所
35.68°N 139.77°E · 日本・東京都
関わった人(2)
山県有朋1838年–1922年 · 廃刀を建議した森有礼AD1847年8月23日–AD1889年2月12日 · 早くに廃刀を説いた本文
1876年(明治9年)3月28日、明治政府は太政官布告第38号を出し、大礼服を着ているときと、軍人・警察官などが制服を着ているとき以外は、刀を身につけてはならないと定めた。布告に題はなく、のちに廃刀令あるいは帯刀禁止令と呼ばれるようになった。武士の魂といわれた刀を腰から外させたこの命令は、武士の身分が終わったことを目に見える形で示した。
江戸時代、刀を差すことは武士の特権だった。刀狩令で百姓から武器を取り上げて以来、腰に大小の二本を差すことは、武士とそれ以外を分けるしるしになっていた。百姓や町人が刀を持っていなかったわけではなく、旅や婚礼、葬式などの改まった場では脇差を差すことが広く許されていた。

廃刀の議論は明治のごく初めからあった。1869年、政府の議事機関として開かれた公議所で、森有礼が刀を差すことの禁止を提案した。早く野蛮な風習を除くべきだというものだったが、王政復古から間もない時期で、刀を廃せば国の元気をくじくと反対され、否決された。森は職を退くことになった。
それでも流れは変わっていった。1870年には、平民が刀を差すことがまず禁じられた。1871年には散髪脱刀令が出され、髷を切ることも刀を外すことも自由になった。散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする、という俗謡が流行ったのはこのころである。ただ、自分から刀を外す士族は多くなかった。同じ年の廃藩置県で藩がなくなり、1873年の徴兵令で、国を守るのは武士ではなく徴兵された国民の軍隊になった。警察の巡査の制度もできた。

直接のきっかけは、1875年12月に陸軍の山県有朋が出した建議だった。これまで刀を帯びたのは敵を倒し身を守るためだったが、いまは国民皆兵の制度ができ、巡査も置かれたので、個人が刀を差す必要はない。速やかに廃刀を命じて、武士という名ばかりの身分と殺伐とした気風を取り除くべきだ、という趣旨である。政府はこれを採り、翌年3月に布告した。
禁じられたのは刀を身につけることで、持つことそのものではなかった。それでも、刀を差すことは実戦の備えというより身分の証だったから、その意味は重かった。士族の中には、刀を袋に入れて持ち歩く者や、差さなければよいのだろうと肩に担いで歩く者もいた。改まった場で脇差を差していた平民も取り締まりの対象になり、新聞には摘発の記事がいくつも載った。

同じ年の8月には、士族に支払われていた禄を打ち切る秩禄処分が決まった。刀と収入を相次いで失った士族の不満は爆発した。10月、熊本で神風連の乱が起き、続いて福岡の秋月の乱、山口の萩の乱が起きた。神風連の人々は、廃刀令を神国の伝統に背くものとして強く憎んでいた。翌1877年には西郷隆盛が挙兵し、西南戦争となる。政府軍は徴兵の兵で、この戦争を最後に士族の武力反乱は終わった。
西南戦争では、薩摩軍の斬り込みに対抗するため、警察官から剣の腕の立つ者を集めた抜刀隊が作られた。刀を禁じた政府が刀の力に頼った皮肉な場面として語られる。その後も警察や軍では剣術が教えられ、明治の後半には撃剣は武道として整えられていった。
廃刀令は、戦後の1946年に銃や刀剣の所持そのものを禁じる勅令が出されたことで意味を失い、1954年に正式に廃止された。豊臣秀吉の刀狩が百姓から武器を取り上げて武士との身分を分けたのに対し、廃刀令は武士の腰から刀を外させ、その身分の差を消していった。約300年をはさんで、刀は二度、身分のあり方を変える道具になったことになる。刀を打つ仕事を失った刀鍛冶の多くは、包丁や農具を作る鍛冶に転じた。刀は武器から美術品へと扱いを変え、いまは登録された刀剣として持つことが認められている。