マッカーサー
概要
父も将軍。ウェストポイント首席。フィリピンから逃げて「必ず戻る」。戻った。ミズーリ号で降伏を受け、日本を6年統治した。憲法、農地改革、財閥解体、天皇の免責。朝鮮で仁川に上陸し、中国が来て、トルーマンに解任された。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」。
所属
アメリカ合衆国関わったできごと(1)
東京裁判AD1946年5月3日 · 設置本文
ダグラス・マッカーサーは1880年1月26日、アーカンソー州リトルロックの陸軍の兵営で生まれた。父アーサー・マッカーサーは南北戦争の英雄で、のちにフィリピンの軍政長官となった将軍である。母メアリー(愛称ピンキー)は息子に大きな期待をかけ、彼がウェストポイントの陸軍士官学校に入ると、近くのホテルに移り住んで見守った。1903年、マッカーサーは士官学校を首席で卒業した。

第一次世界大戦では、各州の州兵を集めて編成した第42師団「レインボー師団」の参謀長、のち旅団長としてフランスで戦った。ヘルメットをかぶらず、軍帽に長いマフラー姿で最前線に出て、2度ガスを浴び、勇敢さを讃える勲章を数多く受けた。戦後は39歳でウェストポイントの校長となり、1930年には50歳で陸軍参謀総長に就いた。1932年、恩給の前払いを求めてワシントンに集まった第一次大戦の退役兵たち「ボーナス・アーミー」を、戦車と騎兵を使って強制排除したことは、大きな批判を浴びた。
1935年、独立を準備していたフィリピンの軍事顧問となり、フィリピン軍の元帥の称号を受けた。1937年に米陸軍を退役した後もマニラにとどまったが、日米の緊張が高まった1941年7月、現役に呼び戻されて極東の米陸軍の司令官となった。
12月8日、真珠湾攻撃の知らせから半日近くたっていたにもかかわらず、日本の航空部隊がルソン島のクラーク飛行場を襲ったとき、米軍の爆撃機は地上に並んだままで、多くが破壊された。なぜ反撃の準備ができていなかったのか、責任の所在は今も議論されている。日本軍が上陸すると、マッカーサーは軍をバターン半島とコレヒドール島に退かせて抵抗した。1942年3月、ローズヴェルト大統領の命令で、彼は家族とともに魚雷艇で島を脱出し、オーストラリアに渡った。到着後の声明で彼は、「私は戻る」と約束した。残された将兵は降伏し、捕虜たちはバターン死の行進で多くの命を落とした。

その後マッカーサーは、南西太平洋の連合軍を率いて、ニューギニアから島づたいに北上した。日本軍の強固な拠点を迂回して補給を断つ作戦をとった。1944年10月20日、フィリピンのレイテ島に上陸し、膝まで海に浸かって浜に歩み寄る姿を写真に撮らせた。「私は戻った」。周辺の海域ではレイテ沖海戦が戦われた。
1945年8月30日、連合国軍最高司令官として、マッカーサーはコーンパイプをくわえ、サングラス姿で厚木飛行場に降り立った。9月2日、東京湾の戦艦ミズーリ号の上で日本の降伏文書の調印式を主宰した。9月27日、昭和天皇がアメリカ大使館に彼を訪ねた。開襟シャツで腰に手を当てたマッカーサーと、正装で直立する天皇が並んだ写真は、新聞に載って日本人に衝撃を与えた。マッカーサーは天皇を戦犯として訴追せず、占領統治に利用する道を選んだ。

占領は6年余り続いた。総司令部は、財閥の解体、農地改革、労働組合の育成、婦人参政権、教育改革などを次々に指令した。1946年元日には天皇の人間宣言が出された。1946年2月、日本政府の憲法改正案が保守的すぎると見たマッカーサーは、天皇を元首とすること、戦争を放棄すること、封建制度を廃止することの三原則を示し、総司令部の民政局に草案を作らせた。これがもとになって日本国憲法が生まれた。戦争の放棄を誰が発案したのかについては、当時の首相幣原喜重郎の発案だったとマッカーサーは後に語っているが、議論が続いている。
1950年6月25日、朝鮮戦争が始まった。国連軍の司令官となったマッカーサーは、9月15日、潮の干満の差が激しく誰もが危険だと反対した仁川への上陸作戦を成功させ、ソウルを奪い返した。勢いに乗った国連軍は38度線を越えて中国との国境の鴨緑江に迫り、彼はクリスマスまでに兵を帰すと言った。だが10月末から、中国の大軍が参戦して国連軍を押し戻した。マッカーサーは中国本土への攻撃を主張し、大統領の方針を公然と批判した。1951年4月11日、ハリー・トルーマン大統領は彼を解任した。軍人は文民の大統領に従わなければならない、という原則を示す決定だった。

日本を去る日、羽田への沿道には多くの市民が見送りに出た。4月19日、アメリカ議会で行った演説を、彼は古い兵隊の歌を引いて締めくくった。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。だがその翌月、上院の公聴会で、アングロサクソンが45歳の成熟した大人だとすれば日本人は12歳の少年のようなものだ、と証言したことが伝わると、日本での人気は急速にしぼんだ。1952年の大統領選挙では共和党の候補になることを望んだが、果たせなかった。
1964年4月5日、マッカーサーはワシントンの陸軍病院で死んだ。84歳。母の故郷であるバージニア州ノーフォークに葬られ、そこに記念館がある。日本では、占領の改革者として、またフィリピンでは解放者として記憶される一方で、その自己演出と傲慢さ、朝鮮戦争での独断も語り継がれている。