ネルソン・マンデラ
概要
27年の獄中生活の後、報復ではなく和解を選んだ。アパルトヘイトを終わらせる。
関わったできごと(1)
アパルトヘイトの終結AD1994年 · 当人本文
1918年、南アフリカ東部のトランスカイ地方、ムヴェゾという村に生まれた。テンブ人の首長の家系で、父は王家の顧問役を務めていた。生まれたときの名はロリシュラシュラで、コサ語で「木の枝を引っ張る者」、転じて「厄介者」を意味するとされる。ネルソンという名は、小学校の初日に教師がつけた英語の名である。父を早くに亡くし、テンブの摂政の家に引き取られて育った。

少年時代は牛の番をしながら、棒を使った格闘や狩りを覚えた。摂政の家では、部族の長老たちが集まって話し合う場をそばで見て育つ。全員が言いたいことを言い終えるまで長は黙って聞き、最後に皆の意見をまとめる。のちに自分の指導の型はここで学んだと、自伝で振り返っている。
フォートヘア大学に進んだが、学生自治をめぐる抗議に加わって退学になる。摂政が決めた結婚を嫌ってヨハネスブルクへ逃げ、鉱山の警備員や法律事務所の見習いをしながら法律を学んだ。1944年、ウォルター・シスル、オリバー・タンボらとアフリカ民族会議の青年同盟を作る。1948年に国民党が政権を取り、人種ごとに住む場所・職業・結婚まで分けるアパルトヘイトを法律にしていくと、運動の前線に立った。1952年、タンボと二人で黒人による最初の法律事務所を開いている。

運動ははじめ非暴力だった。かつて南アフリカで若いガンディーが始めた抵抗の流れを汲むものでもある。1952年の不服従運動では、白人専用の入口や施設をわざと使って逮捕される人が数千人に上った。だが1956年には反逆罪で起訴され、5年近い裁判の末に無罪になる。その間の1960年、シャープビルで警察が抗議の群衆に発砲し、69人が死んだ。アフリカ民族会議は非合法化される。翌1961年、マンデラは武装組織「民族の槍」を作り、その指揮を執った。人を殺さず、送電施設などを壊す破壊工作から始める方針だった。
1962年に逮捕され、1964年のリヴォニア裁判で終身刑を受けた。法廷での陳述の最後に、すべての人が平等に暮らす社会という理想のためなら死ぬ覚悟がある、と述べている。死刑も予想された裁判だった。

27年のうち18年をケープタウン沖のロベン島で過ごした。囚人番号は46664。石灰岩の採石場で働かされ、白い岩の照り返しで目を傷めて、のちにフラッシュ撮影を避けるようになる。手紙は半年に1通、面会は30分に限られた時期があった。それでも看守のアフリカーンス語を学び、彼らの歴史を読んだ。相手の言葉で話せば心に届く、という考えだった。1982年に本土の刑務所へ移される。1985年、ボタ大統領が武装闘争の放棄を条件に釈放を持ちかけると、娘のジンジに読み上げさせた声明で拒んだ。自由な人間だけが交渉できる、という理由である。
獄中では、通信教育で法律の学位を取り直そうと勉強を続け、釈放の前年に学位を得ている。仲間の囚人と議論の会を開き、島は「ロベン島大学」と呼ばれた。若い活動家たちが送られてくると、年長の囚人として彼らをまとめる役も負った。看守の中には、長い年月のうちに彼を敬うようになり、釈放後も交わりを続けた者がいる。

政府との接触を始めたのは本人だった。同じ頃から法相らと秘密の会談を重ねている。仲間に相談せずに動いたことは、組織の中で問題にされた。1989年に大統領がデクラークに代わる。同じ年のベルリンの壁の崩壊で冷戦が終わりに向かい、共産主義の脅威を理由に運動を抑える論法も通りにくくなっていた。翌1990年2月11日、71歳で釈放された。
釈放から選挙までの4年は、内戦の瀬戸際だった。黒人どうしの抗争で多くの死者が出て、1993年には後継と目された指導者クリス・ハニが白人の右翼に暗殺された。マンデラはテレビで国民に自制を呼びかけている。同じ年、デクラークとともにノーベル平和賞を受けた。1994年4月、全人種が投票する初めての選挙が行われ、アパルトヘイトの終結が形になる。5月に大統領に就いた。

就任後に力を入れたのは、白人を追い出さないことだった。旧体制の閣僚を政府に残し、真実和解委員会を作って、罪を語った者には恩赦を与える道を開いた。1995年のラグビー・ワールドカップと南アフリカでは、白人支配の象徴とされたスプリングボクスの緑のジャージを着て表彰台に立った。報復を望む声は黒人の側にも強く、和解の路線は甘すぎるという批判をいまも受けている。
在任中の1996年には、人種による差別の禁止と幅広い人権を定めた新しい憲法が作られた。一方、住宅や電気・水道を黒人居住区に届ける計画は思うほど進まず、失業と格差はほとんど縮まらなかった。エイズの広がりへの対応が遅れたことは、本人も退任後に悔いとして語っている。政治の自由は手に入ったが、経済の不平等は残った、という指摘はいまも重い。

大統領は一期で退いた。アフリカの独立指導者の多くが終身の座に留まったなかで、自分から降りた例になる。私生活では、獄中を支えたウィニー夫人と1996年に離婚し、80歳の誕生日にモザンビークの元大統領夫人グラサ・マシェルと結婚した。退任後はエイズ対策を訴え、息子をエイズで亡くしたことを自ら公表している。
1994年に出た自伝『自由への長い道』は、獄中でひそかに書き始めた原稿がもとになっている。国連は2009年、彼の誕生日の7月18日を「ネルソン・マンデラ国際デー」と定めた。

2013年12月5日、95歳で死んだ。自分を聖人のように扱われることを嫌い、聖人とは努力を続ける罪人のことだと思うならそれでいい、という趣旨のことを言っている。1976年のソウェト蜂起を戦った世代から見れば遅すぎる和解だったという声も、彼でなければ流血は止まらなかったという声も、どちらも残っている。