ルーデンドルフ
概要
リエージュを取り、タンネンベルクを勝ち、ヒンデンブルクと二人でドイツを事実上の軍事独裁にした。1918年の春季攻勢で負けて「休戦を」と言い、それから「背後の一突き」を言い出した。ミュンヘン一揆に加わり、無罪。晩年はキリスト教も嫌う異教の団体を作った。
関わったできごと(1)
ミュンヘン一揆AD1923年11月9日 · 担がれた本文
エーリヒ・ルーデンドルフは、1865年4月9日、プロイセン領ポーゼン州(いまのポーランド西部)の小さな農場で生まれた。家は貴族ではなく、名に「フォン」は付かない。士官学校を経て軍に入り、勤勉さと計算の正確さで参謀本部に入った。貴族の将校が多い中で、実務の力だけでのし上がった人だった。

1908年からは参謀本部で動員と作戦の計画を担当した。対フランス戦の計画を実行するには兵が足りないと考え、軍の大幅な増強を政府に迫り続けたため、1913年に前線の連隊長へ回された。
1914年8月、第一次世界大戦が始まった。ドイツ軍はベルギーの要塞都市リエージュを攻めたが、旅団長が戦死して攻撃が乱れた。参謀として従っていたルーデンドルフが指揮をとって市内に入り、城砦の門を自ら叩いて降伏させたと伝えられる。一躍英雄になった彼は、ロシア軍に押されていた東プロイセンの第8軍の参謀長に選ばれ、引退していた老将ヒンデンブルクを司令官として迎えた。8月末のタンネンベルクの戦いでロシア軍を包囲して壊滅させ、二人は国民的な英雄になった。作戦の多くは部下の参謀ホフマンが立てていたともいわれ、功績の分け方には議論がある。

1916年8月、ヒンデンブルクが参謀総長に、ルーデンドルフが参謀次長にあたる第一兵站総監になった。二人は「ヒンデンブルク計画」で兵器の生産を倍増させようとし、国民を軍需生産に動員する法律を作らせた。戦争に国の全てをつぎ込む総力戦である。1917年には無制限潜水艦作戦を押し通し、これに慎重だった宰相ベートマン・ホルヴェークを辞任に追い込んだ。皇帝は飾りとなり、ドイツは事実上、軍人二人の独裁の国になった。
1918年3月、ロシアとの講和(ブレスト・リトフスク条約)で東の兵を西へ回したルーデンドルフは、アメリカ軍が本格的に到着する前に勝負をつけようと、西部戦線で大攻勢を始めた。最初の攻撃でイギリス軍を大きく押し戻したが、突破のあとの目標がはっきりせず、攻勢は何度繰り返しても決め手にならなかった。8月8日、アミアンで連合軍が反撃し、ドイツ兵が大量に降伏した。ルーデンドルフはこの日を「ドイツ陸軍の暗黒の日」と呼んだ。

9月29日、彼は皇帝と政府に、ただちに休戦を求めるよう迫った。同時に、議会の多数派から成る政府を作らせた。敗戦の責任を、軍ではなく議会の政治家に負わせるためだったと、側近の記録からも読み取れる。10月26日、方針の食い違いから皇帝に解任された。休戦のあと、つけ髭と色眼鏡で変装してスウェーデンへ逃れた。
1919年に帰国すると、ドイツ軍は戦場では負けておらず、国内の革命派と裏切り者に背後から刺されたのだという「背後からの一突き」の説を広めた。イギリスの将軍との会話でこの言葉を思いついたと彼自身は語っている。実際には休戦を最初に求めたのは彼自身だったが、この説は右派の合言葉になり、ヴァイマル共和国を内側から揺さぶった。

1920年のカップ一揆に関わり、1923年11月にはヒトラーとともにミュンヘンで一揆を起こした(ミュンヘン一揆)。行進の先頭に立った彼は、兵士は自分を撃たないと信じていたという。警官隊の発砲で一揆は崩れたが、翌年の裁判でヒトラーが禁錮刑を受けたのに対し、ルーデンドルフは無罪になった。1924年に国会議員となり、1925年の大統領選挙に立ったが、得票は1パーセント余りで、当選したのはかつての上官ヒンデンブルクだった。
その後のルーデンドルフは、二度目の妻マティルデとともに、ユダヤ人・フリーメイソン・イエズス会が世界を操っていると説く団体を率い、キリスト教そのものをドイツの敵として退けるようになった。ヒトラーとも距離を置いた。1933年にヒトラーが首相になったとき、ヒンデンブルクに宛てて、この男は国を奈落に落とすと警告する手紙を書いたとされるが、その手紙が本物かどうかは疑われている。1935年には、次の戦争は国民の全てを動員する戦いになると説く『総力戦』を書いた。

1937年12月20日、ミュンヘンで死んだ。72歳だった。本人は望まなかったが、国葬が営まれ、ヒトラーが参列した。戦場での働きは目覚ましかったが、負けを認めずに作った物語は、次の時代を導く者たちに引き継がれた。