三十人の戦い
概要
ブルターニュ継承戦争のさなか、両陣営が30人ずつの騎士を出して戦った決闘。騎士道の華としてたたえられた。
場所
47.94°N -2.49°E · フランス・モルビアン県
本文
百年戦争が始まって間もない1341年、ブルターニュ公が跡継ぎを残さずに死ぬと、公位をめぐって二つの家が争った。ブロワ家のシャルルをフランス王が、モンフォール家のジャンをエドワード3世のイングランドが後押しし、ブルターニュは英仏の代理戦争の場になった。これをブルターニュ継承戦争と呼ぶ。1350年代に入るころには、戦いは膠着していた。
そのころ、モンフォール側のプロエルメル城にはロバート・ベンバラという隊長がいた。イングランド人ともドイツ人とも言われ、出自ははっきりしない。近くのジョスラン城を守るブロワ側のジャン・ド・ボーマノワールが、このベンバラに一騎打ちを申し込んだ。年代記作家ジャン・フロワサールによれば、ベンバラが「それなら双方から20人か30人ずつ出して戦おう」と応じ、ボーマノワールも乗り気になって、話が一気に大きくなったという。
なぜ戦うことになったのかは、はっきりしない。古い記録は、両陣営の騎士がそれぞれの奉じる貴婦人、つまり夫を捕らわれたり失ったりして家を率いていた二人のジャンヌのために戦ったとする。一方、戦いのあとに広く歌われたブロワ側の歌では、ベンバラの兵が近隣の農民を苦しめ、見かねたボーマノワールが立ち上がった話になっている。
1351年3月26日、二つの城の中間にある「ミ・ヴォワのオーク」の木のもとに、両陣営が30人ずつを連れて集まった。ブロワ側はボーマノワールが率いるブルトン人30人。モンフォール側はイングランド人20人、ドイツ人の傭兵6人、ブルトン人4人で、のちに名を上げるロバート・ノールズやヒュー・カルヴァリーも加わっていた。ノールズはのちにイングランド軍を率いてフランス各地を転戦する名だたる隊長になり、カルヴァリーもスペインまで戦いに出ている。多くの見物人が見守る中、騎士たちは剣や短剣、槍、斧で斬り合った。多くは馬を降り、徒歩で戦ったとされる。戦いのさなか、傷ついたボーマノワールが喉の渇きを訴えると、仲間の一人が「ボーマノワール、おのれの血を飲め。渇きは消える」と叫んだという話が伝わる。この言葉はのちにボーマノワールの家の標語のように語り継がれた。
数時間の戦いで、フランス側に4人、イングランド側に2人の死者が出た。両軍とも疲れ果て、いったん休んで水を飲み、傷の手当てをした。戦いが再開してまもなくベンバラが討たれると、モンフォール側は崩れ始める。最後はブロワ側の従騎士ギヨーム・ド・モントーバンが馬に乗って敵の列に突っ込み、勝負が決まった。モンフォール側は9人が死に、残りは捕らえられた。生き残った者もみな深手を負っていたが、捕虜は手厚く扱われ、少ない身代金で放された。
この決闘は、戦争の行方にはまったく影響しなかった。ブルターニュ継承戦争はその後も続き、1364年のオーレーの戦いでモンフォール側が勝って決着する。それでも同時代の人々はこの戦いを騎士道の理想としてたたえた。吟遊詩人が歌い、フロワサールは両軍の戦士を武勲詩の英雄ローランやオリヴィエになぞらえ、のちにフランス王シャルル5世は戦いを描いたタペストリーを作らせた。大事なのは勝敗ではなく、どう振る舞ったかだった。フロワサールは、生き残りの一人イヴ・シャリュエルが、顔に深い傷を負ったまま王の食卓に招かれているのを見たと書いている。
時代が下ると見方は変わり、ブルターニュがフランスに併合されたあとは、外国の侵略に立ち向かったフランス騎士の英雄譚として語られるようになった。ナポレオン・ボナパルトは戦場跡に記念の塔を建てる計画を立て、1819年、王政復古のルイ18世のもとでオベリスクが完成した。クレシーの戦いやポワティエの戦い(1356年)のような大会戦の陰で、少人数の決闘が国の記憶にまでなった珍しい例である。