できごと

センナケリブのエルサレム包囲

Assyrian siege of Jerusalem
BC701年
重要度 4
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC701年の版図を描いています(34勢力)。

概要

ヒゼキヤはトンネルを掘って泉を城内に引き、壁を厚くして待った。アッシリアの王は46の町を落とし、エルサレムを「籠の鳥のように閉じ込めた」と自分の碑に書いたが、落としたとは書かなかった。聖書は天使が18万5000を打ったと書く。トンネルはいまも水が流れる。

場所

エルサレム
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ

関わった人(2)

ヒゼキヤBC740年頃–BC687年 · 王センナケリブ?–BC681年 · 包囲

本文

紀元前705年、新アッシリア帝国の王サルゴン2世が戦場で死んだ。新しい王センナケリブが即位すると、帝国の各地で従属していた国々が背いた。ユダの王ヒゼキヤもその一人だった。彼はエジプトと結び、バビロンで反アッシリアの旗を掲げたメロダク・バルアダンとも使者を交わし、アッシリアへの貢ぎ物を止めた。

ヒゼキヤは籠城の準備を進めた。都エルサレムの水源ギホンの泉は、城壁の外の谷にあった。囲まれれば水を断たれる。そこで彼は、岩盤の中にトンネルを掘り、泉の水を城内の池へ引いた。長さは533メートル。両端から掘り進め、曲がりくねりながら中ほどで出会った。トンネルの壁に刻まれた碑文には、掘る者たちが互いの声を聞き、つるはしとつるはしが向き合って打ち抜かれ、水が泉から池へ1200キュビト流れた、とある。1880年、トンネルで遊んでいた少年がこの碑文を見つけた。碑文はのちに切り取られ、当時この地を治めていたオスマン帝国の都へ運ばれて、いまもイスタンブルの考古学博物館にある。トンネルにはいまも水が流れ、人が歩いて通り抜けることができる。

シロアムのトンネル内部, 2010
シロアムのトンネル内部, 2010Wikimedia Commons Tamar Hayardeni תמר הירדני · CC BY 3.0

ヒゼキヤは城壁も厚くした。エルサレムの旧市街で見つかった「広い壁」は、厚さが7メートルほどある。ユダの各地からは、「王のもの」という印を押した壺の取っ手が数多く見つかっていて、王が食料を蓄えた跡と考えられている。

紀元前701年、センナケリブは西へ兵を進めた。フェニキアの町々を降し、ペリシテの地へ入り、エルテケでエジプトの援軍を破って、ユダに攻め込んだ。ユダ第二の町ラキシュは激しい攻撃の末に落ちた。センナケリブはこの勝利を誇り、都ニネヴェの宮殿の壁に、その攻囲のありさまを浮き彫りに刻ませた。土を盛った斜路を上る破城槌、城壁から矢を射る守り手、串刺しにされる者、家財を背負って連れ去られる人々の列。この浮き彫りはいま大英博物館にある。ラキシュの発掘では、実際にアッシリアの攻城の斜路が見つかっている。

センナケリブから解放されるエルサレム, 1860年、ジュリアス・シュノール・フォン・カロルスフェルトによる木版画
センナケリブから解放されるエルサレム, 1860年、ジュリアス・シュノール・フォン・カロルスフェルトによる木版画Wikimedia Commons Julius Schnorr von Carolsfeld · Public domain

イザヤの書と列王記によれば、アッシリアの高官ラブ・シャケはエルサレムの城壁の下に立ち、ユダの言葉で呼ばわった。お前たちが頼るエジプトは折れかけた葦の杖だ。どこの国の神が、アッシリアの王の手から自分の国を救ったか。ユダの役人たちが、民に聞こえないようアラム語で話してほしいと頼むと、ラブ・シャケは、自分は城壁の上の民に話しに来たのだと言い、籠城すれば自分の糞を食い、小便を飲むことになるぞ、と脅した。預言者イザヤは王に、アッシリアの王はこの町に矢一本射ることなく、来た道を帰るだろうと告げた。そしてその夜、主の使いが出て、アッシリアの陣営で18万5000人を打った、と聖書は書く。

センナケリブの側にも記録が残っている。粘土の六角柱に刻まれた年代記である。ユダのヒゼキヤは私の軛に服さなかった。私は彼の城壁のある46の町と無数の村を、土塁と破城槌で囲んで取り、20万150人と、数えきれない家畜を戦利品とした。彼自身は、籠の中の鳥のように、その王都エルサレムに閉じ込めた。年代記はこう書き、ヒゼキヤが後に金30タラントと銀800タラントのほか、娘たちや宮廷の女たちをニネヴェへ送ってきたと誇る。列王記もまた、ヒゼキヤが金30タラントと銀300タラントを払い、神殿の扉の金まではがして差し出したと記している。

センナケリブの角柱
センナケリブの角柱Wikimedia Commons This image was produced by me, David Castor ( user:dcastor ). The pictures I submit to the Wikipedia Project are release · Public domain

二つの記録は、多くの点で重なる。ユダの国土は荒らされ、ヒゼキヤは莫大な貢ぎ物を払った。だが、アッシリアの年代記は、エルサレムを「閉じ込めた」とは書いても、「取った」とは書いていない。他の町々を落としたときのように、王を捕らえたとも書かない。アッシリアの軍はなぜ引き上げたのか。聖書は天使の働きとし、ギリシアのヘロドトスは、エジプトの伝えとして、夜のうちに野ねずみがアッシリアの兵の弓の弦や盾の紐を食い破ったため、彼らは武器なしで逃げたと書く。陣営に疫病が広がったのだという説も、エジプトの軍が迫ったためだという説も、帝国の他の土地の反乱に備えたためだという説もある。確かなことは分からない。

確かなのは、エルサレムが落ちなかったことである。北のイスラエル王国は20年ほど前にアッシリアに滅ぼされ、民は遠くへ移されていた(アッシリアの強制移住)。世界最強の王が落とせなかったこの都は神に守られている、という信念が、ユダの人々の中に根を下ろした。その信念は、115年後、新バビロニアのネブカドネザル2世の軍が都を囲んだときにも人々を支えたが、そのとき神殿は焼かれ、人々は捕らわれてバビロンへ連れ去られた(バビロン捕囚)。

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