できごと

カナート

The qanat
BC700年頃
重要度 5
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このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC700年頃の版図を描いています(38勢力)。

概要

乾燥地で水を引く。山麓の帯水層まで縦穴を掘り、そこから村へ向かって、ごく緩い勾配の横穴を通す。水は重力だけで流れ、地下を通るので蒸発しない。掘る途中の土を出すために、数十メートルごとに縦穴を開ける。空から見ると、点線が砂漠を横切っている。イランに三万数千本があり、総延長は数十万キロに及ぶ。北アフリカのフォガラ、中国のカレーズ、スペインとメキシコの水路も同じ技術である。掘る者は落盤と窒息で死んだ。

場所

イスファハーン
32.65°N 51.67°E · イラン(サファヴィー朝の都)

本文

イラン高原の多くの土地では、雨が年に250ミリも降らない。夏には気温が40度を超え、川は無いか、あっても雨の季節にしか流れない。それでも山には雪が降る。高原を囲むザグロス山脈やエルブルズ山脈に積もった雪は、春になると解けて、山のふもとの砂や礫の層に染み込んでいく。地下には水を含んだ層、帯水層がある。問題は、その水をどうやって離れた村まで運ぶかだった。

地面に溝を掘って水を流せば、乾いた夏の空気に吸い取られ、途中で多くが消えてしまう。井戸から汲み上げれば力が要り、汲みすぎれば地下の水が尽きる。そこで生まれたのが、地下に水の通り道を掘るという方法である。ペルシア語でカナートと呼ばれ、アフガニスタンや中国の新疆ではカレーズ、オマーンではファラジュ、北アフリカではフォガラと呼ばれる。同じ技術が、名前を変えて乾いた土地の広い範囲に広がっている。

イラン南部の沖積扇状地。NASAのテラ衛星の画像、2004年
イラン南部の沖積扇状地。NASAのテラ衛星の画像、2004年Wikimedia Commons NASA image created by Jesse Allen, using data from NASA/GSFC/METI/ERSDAC/JAROS, and the U.S./Japan ASTER Science Team. C · Public domain

作り方はこうだ。まず山麓で、帯水層に届くまで「母井戸」を掘り、水が出ることを確かめる。深さは数十メートルのものから、300メートル近いものまである。次に、水を届けたい村のほうから母井戸へ向かって、横穴を掘り進める。横穴はごく緩やかな一定の傾きを保たなければならない。1キロ進んで数十センチから1メートルほど下がる程度である。傾きが急すぎると流れる水が床を削って穴が崩れ、緩すぎると水が流れずに淀んでしまう。

横穴を掘る途中、数十メートルおきに地上から縦穴を開ける。掘った土を外へ運び出すための穴であり、地下で働く者に空気を送る穴でもあり、完成後に点検し、たまった泥をさらうための入り口にもなる。横穴は村の手前で地表に出て、そこから先は開いた水路で畑や家々へ水を配る。水は重力だけで流れ、地下を通るのでほとんど蒸発しない。

モロッコ、フィギグのナツメヤシ・オアシスにある灌漑用貯水池(シャリジュ)、1913年
モロッコ、フィギグのナツメヤシ・オアシスにある灌漑用貯水池(シャリジュ)、1913年Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

縦穴の口のまわりには、掘り出した土が輪のように積み上げられる。それが点々と一直線に連なり、砂漠を横切っていく。空から見ると、小さな噴火口が列をなしているように見え、いまでも衛星写真ではっきりと分かる。

掘るのは、ムカンニーと呼ばれる専門の掘り手だった。技は親から子へ受け継がれることが多く、仕事はとても危なかった。落盤、窒息、そして突然の出水。掘り手は死んだときにそのまま経帷子になるよう白い服を着て穴に入った、という言い伝えもある。報酬は高かったが、長生きする者は少なかったと言われる。

スファックスで雨水を集める様子、1918年
スファックスで雨水を集める様子、1918年Wikimedia Commons William K. Vanderbilt · Public domain

カナートの始まりは、少なくとも紀元前1千年紀の前半にさかのぼる。紀元前714年、新アッシリア帝国の王サルゴン2世がウラルトゥへ遠征したときの記録に、地下の水路らしいものを見たという記述がある(ウラルトゥの興り)。その後、アケメネス朝ペルシアがこの技術を帝国の各地へ広めた。ギリシアの歴史家ポリュビオスは、ペルシアの王が、水の無い土地に新しく地下水路を引いた者に、子孫5代にわたって税を免じたと書いている。

イラン東部ホラーサーン地方のゴナーバードには、約2700年前に掘り始められたとされるカナートが残る。長さは30キロを超え、母井戸の深さは300メートル近い。いまも数万人の暮らしを支えている。2016年、ゴナーバードを含むイランの11のカナートが「ペルシアのカナート」としてユネスコの世界遺産に登録された。イラン全体では、20世紀の調査で3万本を超えるカナートが数えられ、その総延長は数十万キロに及ぶと推定されている。

ゴナバードのカナート、ズィバードにある古代ペルシアの水時計
ゴナバードのカナート、ズィバードにある古代ペルシアの水時計Wikimedia Commons Maahmaah · Public domain

カナートは一人では作れず、一人では保てない。毎年たまる泥をさらい、崩れたところを直す共同の作業が、何百年も続けられなければならない。水の分け方も決めておく必要があった。多くの村では水を時間で分けた。底に小さな穴を開けた椀を水に浮かべ、沈むまでを一単位として、誰の畑に何単位ぶん水を入れるかを決める。この水を使う権利は土地とは別の財産として売り買いされ、親から子へ相続された。カナートは土木の技術であると同時に、村の社会の仕組みでもあった。

技術は乾いた土地を伝って広がった。アラブの征服とともに北アフリカへ、そしてイベリア半島へ渡り、スペインからさらに新大陸のメキシコやチリへ伝わった。中国のトゥルファン盆地のカレーズも、同じ仕組みで天山山脈の雪解け水を引いている。スペインの乾いた平野では、水をどう分けるかを農民自身が裁く水の法廷のような仕組みも生まれた。

グラナダ、アルハンブラ庭園の灌漑
グラナダ、アルハンブラ庭園の灌漑Wikimedia Commons Jebulon · CC0

ところが20世紀の後半、カナートは急速に廃れていった。動力のポンプで深い井戸から地下水を汲み上げるほうが、速くて安かったからである。だがポンプは地下水の水位を下げ、カナートの母井戸を枯らした。ポンプが、カナートの水源そのものを奪ったのである。掘り手の技も受け継がれなくなり、土地改革や都市への人の流出で、維持する村人もいなくなった。イランでは1960年代から使われるカナートが目に見えて減り、いまでは地下水の低下と地盤の沈下が深刻な問題になっている。近年は、残ったカナートを掘り直して使おうとする試みも各地で始まっている。

カナートには、動かす力も燃料もいらない。そして、構造上、汲みすぎることができない。帯水層の水位より上に水が上がってくることはなく、水位が下がれば流れる量が減り、枯れれば止まる。つまり、帯水層に水が戻ってくる速さを超えて取ることができないのである。ポンプにはそれができてしまい、実際にそうしてきた。アラル海の縮小のように、近代の水の使い方は、取れるだけ取って水源を失う例をいくつも生んだ。2700年前の地下の水路には、乾いた土地で長く生きるための制約が、はじめから組み込まれていた。

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