ソロモン
概要
知恵の王として伝わる。二人の母が争う子を剣で分けよと言った。神殿を建て、外国の妃を多く持ち、その死後に王国が割れた。
関わったできごと(1)
ソロモンの神殿BC960年頃 · 王本文
ソロモンについて語るものは、ほとんどヘブライ語聖書(旧約聖書)の『列王記』と『歴代誌』しかない。同時代の碑文や外国の記録に、その名は一度も出てこない。以下は、まず聖書の語るソロモンであり、それがどこまで歴史なのかは最後に触れる。聖書の年代を当てはめると、在位はおよそ紀元前970年ごろから930年ごろの40年間になる。

ソロモンは、イスラエルの王ダビデとバテシバの子として生まれた。その出生には影がある。ダビデは、忠実な部下ウリヤの妻だったバテシバと通じ、ウリヤを戦場の最前線に送って死なせ、バテシバを妻にした。最初に生まれた子は死に、次に生まれたのがソロモンだった。
ソロモンには年上の兄たちがいた。老いたダビデが病に伏すと、兄のアドニヤが自ら王を名乗る準備を始めた。預言者ナタンとバテシバはダビデのもとへ行き、かつてソロモンを後継ぎにすると誓ったではないかと迫った。ダビデはソロモンを王とするよう命じ、ソロモンはエルサレムの泉のほとりで油を注がれた。ダビデの死後、ソロモンはアドニヤを殺し、兄に味方した将軍ヨアブも祭壇にすがっていたところを殺させた。知恵の王の治世は、血で始まっている。

王となったソロモンは、ある夜、夢の中で神に、何が欲しいかと問われた。ソロモンは富でも長寿でもなく、民を正しく裁くための聞き分ける心を求めた。神はそれを喜び、求めなかった富と誉れも与えた、と聖書は語る。
その知恵を示す話として名高いのが、二人の女の裁きである。同じ家に住む二人の遊女が、それぞれ赤ん坊を産んだ。一人の子が夜のうちに死に、二人とも生きている子は自分の子だと言い張った。ソロモンは剣を持ってこさせ、子を二つに切って半分ずつ与えよと命じた。一人の女は、それならあの人に与えてください、殺さないでくださいと叫び、もう一人は、どちらのものにもならないよう切ってしまえと言った。王は、子を殺すなと言った女こそ母親だと判じた。
ソロモンは大きな建築を次々に行った。北の港町ティルスの王ヒラムと手を結び、レバノンの杉材と腕のいい職人を送ってもらった。エルサレムの丘の上に、7年をかけて神殿を建てた(ソロモンの神殿)。神の箱を納める奥の間は、金で覆われていたという。父ダビデが都と定めたエルサレム(ダビデのエルサレム)は、ここで王国の信仰の中心になった。宮殿にはそれより長い13年をかけた。ヒラムとともに紅海の港から船団を出し、オフィルという地から金を運ばせ、エジプトから馬と戦車を買い入れて売りさばいた。エジプトのファラオの娘を妃に迎えたとも書かれている。

南の国からはシバの女王が、香料と金と宝石を携え、難問でソロモンを試しに来た。王はすべての問いに答え、女王はその知恵と都の豊かさに息をのんだという。シバはアラビア半島南部の王国とする見方が多い。エチオピアでは、女王とソロモンのあいだに生まれた子メネリクが最初の王になったと伝えられ、13世紀以降の王朝はその子孫を名乗った(エチオピア・ソロモン朝の成立)。
だが栄華には代償があった。建築のために民には重い税と労役が課され、とくに北の部族は不満をためた。聖書は、ソロモンには妃が700人、側女が300人いたと書く。外国から来た妃たちのために、王はその国々の神の祭壇を築き、晩年には自らもそれを拝んだ。それが神の怒りを招いた罪とされる。南ではエドムが、北ではダマスカスが背き、王の家臣だったヤロブアムは反乱を企ててエジプトへ逃れた。

ソロモンの死後、息子レハブアムは、北の部族から負担を軽くするよう求められると、父はお前たちを鞭で懲らしめたが、私はさそりで懲らしめる、と答えた。北の10部族は離れてヤロブアムを王に立て、王国は北のイスラエルと南のユダに割れた(イスラエル王国の分裂)。
聖書は『箴言』『伝道の書』『雅歌』をソロモンの作とするが、現代の研究では、多くは後の時代にソロモンの名を借りて書かれたものと考えられている。イスラームでもソロモンはスライマーンの名で預言者とされ、動物の言葉を聞き、精霊を従えた王として語られる。

歴史としてのソロモンは、確かめられていない。紀元前9世紀の碑文に「ダビデの家」という言葉が見つかり、ダビデの王朝が実在したことはほぼ確かになったが、ソロモン自身を記した同時代の資料は無い。イスラエルのメギドやハツォルの遺跡の城門をソロモン時代のものとする説もあるが、1世紀ほど後の北王国の王たちの時代のものだとする反論があり(オムリのサマリア建設)、論争が続いている。聖書が描く大帝国が誇張なのか、小さいながら実在した王国の記憶なのか、答えはまだ出ていない。