できごと

ササン朝の成立

Sasanian Empire
AD224年
重要度 5
古シベリアの狩猟採集民コイサンローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民ササン朝ペルシアパルティアサカ族の王国マガダスーレーン家の王国サータヴァーハナ朝メロエヒムヤル王国カリンガアクスム王国アルメニアチョーラ朝ハドラマウトブレンミュエスYuebanBoihaenumシンハラAD224年クテシフォン
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD224年の版図を描いています(22勢力)。

概要

アルダシール1世がパルティアを倒し、ゾロアスター教を国の宗教として立てた。以後400年、ローマ/ビザンツと東地中海をめぐって争いつづける相手になる。

場所

クテシフォン
33.09°N 44.58°E · イラク

本文

3世紀の初め、イラン高原からメソポタミアにかけて広がるパルティア王国は、400年近く続いていた。王はいたが、各地には半ば独立した有力な貴族や地方の王が並び、王はその上に立つ盟主のような存在だった。ローマとの戦争に疲れ、王族のあいだでは王位をめぐる争いが続いていた。

その一角、イラン南西部のパールス地方(ペルシア人の故地で、ギリシア語でペルシスと呼ばれた)から、アルダシールという人物が現れた。のちの王家の伝えでは、祖父のササンは女神の神殿に仕える神官だったとされ、王朝の名はこの祖父に由来する。アルダシールは父の代から地方の権力を固め、周りの小さな王を次々に従えていった。

降伏するウァレリアヌスらと騎乗したシャープール1世(ナクシェ・ロスタムの磨崖像より)
降伏するウァレリアヌスらと騎乗したシャープール1世(ナクシェ・ロスタムの磨崖像より)Wikimedia Commons User:Fabienkhan · Public domain

224年、アルダシールはパルティア最後の王アルタバヌス4世と戦い、これを討ち取った。のちにアルダシールは、この戦いを馬上で敵を突き落とす姿として岩に刻ませている。続いてメソポタミアの都クテシフォンに入り、「イランの王の中の王」を名乗った。息子の代には、これに「非イランの」という言葉も加えられた。

新しい王朝は、パルティアのやり方を受け継ぎながらも、王の力を強めようとした。地方の王家の多くは取り除かれ、王族や王の任命した者が各地を治めるようになった。都市が建てられ、灌漑が整えられた。王の権威を支える柱になったのが、ゾロアスター教である。王は神々に選ばれた者として描かれ、聖なる火を祀る神殿が各地に置かれた。

ターク・イ・ブスタン小洞のシャープール3世(左)とその父シャープール2世(右)の像。像の左上、右上に各々の像主について中期ペルシア語碑文が書かれている。
ターク・イ・ブスタン小洞のシャープール3世(左)とその父シャープール2世(右)の像。像の左上、右上に各々の像主について中期ペルシア語碑文が書かれている。Wikimedia Commons Philippe Chavin · CC BY 2.5

ゾロアスター教は、善の神アフラ・マズダと悪の力の戦いを説く、古いイランの宗教である(ゾロアスターの教え)。ササン朝のもとで神官の組織が整えられ、裁判や記録にも関わるようになった。3世紀後半には、大神官カルティールが力を持ち、キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ教徒などを迫害したことを自ら碑文に書き残している。新しい宗教を説いたマニも、この時期に処刑された(マニの処刑)。ただし、どの時期にどこまで国家と宗教が一体だったかには議論があり、王たちの宗教政策も時代によって揺れた。いずれにせよ、ローマがキリスト教を国教とした380年(キリスト教の国教化)より150年あまり前に、宗教を王権の柱に据えた大国が生まれていたことになる。

アルダシールの息子シャープール1世の時代、ササン朝はローマを相手に大きな勝利を重ねた。244年には、攻め込んできたローマ皇帝ゴルディアヌス3世が遠征中に死に、後継の皇帝は賠償金を払って講和した。260年には、エデッサの近くでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にする(ローマ皇帝が捕らわれる)。ローマの皇帝が敵の捕虜になったのは、これが初めてだった。シャープールはこの勝利を、中世ペルシア語、パルティア語、ギリシア語の三つの言葉で石に刻ませ、自分が打ち負かしたローマの軍と、捕らえて連れ帰った兵士たちのことを誇っている。連れてこられたローマの捕虜は、イランの各地で町づくりや堤の工事に使われた。ナクシェ・ロスタムの岩壁には、馬上のシャープールの前にひざまずくローマ皇帝の姿が刻まれている。

ホスロー2世を屈服させるヘラクレイオス(十字架に描かれた七宝製画像、12世紀後半)
ホスロー2世を屈服させるヘラクレイオス(十字架に描かれた七宝製画像、12世紀後半)Wikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

それから400年、ササン朝とローマ、のちのビザンツ帝国は、メソポタミアとアルメニアをめぐって戦いを繰り返した。どちらも相手を滅ぼすには遠すぎ、勝って奪った土地も長くは保てなかった。4世紀末にはアルメニアを分け合う取り決めもなされている(ローマとササン朝のアルメニア分割)。6世紀にはホスロー1世の改革で税の仕組みが整えられ、ササン朝は最盛期を迎えた。

7世紀の初め、ホスロー2世はビザンツの混乱に乗じてシリア、エルサレム、エジプトを奪い、コンスタンティノープルまで迫った。だが皇帝ヘラクレイオスがイランの奥深くへ反撃し、628年、ホスロー2世は宮廷のクーデタで殺された。26年にわたる戦争で、両方の帝国は力を使い果たしていた。

その直後、アラビア半島からイスラームの軍が現れた。636年のカーディシーヤの戦いでササン朝の主力が敗れ、クテシフォンが落ちた。642年のニハーヴァンドの戦いで組織だった抵抗は崩れ、651年、最後の王ヤズデギルド3世が東のメルヴの近くで殺された。ササン朝は20年ほどで消え、ビザンツもシリアとエジプトを失った。

カーディシーヤの戦いに関わる図版:Depiction of the Battle of al-Qādisiyyah from a manuscript of the Persian epic Shāh-nāmeh. Source- British Library (MS.
カーディシーヤの戦いWikimedia Commons Unknown artist Unknown artist · Public domain

それでも、ササン朝の残したものは消えなかった。王の宮廷の儀礼や役所の仕組みは、のちのイスラームの王朝に受け継がれた。ササン朝の銀器やガラス器、織物の文様は、シルクロードを通って東へ伝わった。奈良の正倉院に伝わるガラスの碗には、ササン朝で作られたものと同じ型とされるものがある。イランの人々がイスラームを受け入れた後も、ペルシア語とペルシアの王たちの物語は生き続け、10世紀には叙事詩『王書』にまとめられた。

動画(1)

008 パルティアとササン朝 世界史20話プロジェクト第01話Historia Mundi ムンディ先生高校の世界史を200講で通す講義の第8講「パルティアとササン朝」

同じ時代のできごと

華佗の死AD208年頃公孫氏の帯方郡AD204年建安文学AD210年頃三顧の礼AD207年赤壁の戦いAD208年銅雀台AD210年潼関の戦いAD211年アントニヌス勅令AD212年
この項目は誰でも直せます。編集する編集履歴
AD224年の世界を地図で見る国境・できごと・生きている人が、その年のものに入れ替わります歴史データベースとは? →