ササン朝の成立
概要
アルダシール1世がパルティアを倒し、ゾロアスター教を国の宗教として立てた。以後400年、ローマ/ビザンツと東地中海をめぐって争いつづける相手になる。
場所
33.09°N 44.58°E · イラク
本文
3世紀の初め、イラン高原からメソポタミアにかけて広がるパルティア王国は、400年近く続いていた。王はいたが、各地には半ば独立した有力な貴族や地方の王が並び、王はその上に立つ盟主のような存在だった。ローマとの戦争に疲れ、王族のあいだでは王位をめぐる争いが続いていた。
その一角、イラン南西部のパールス地方(ペルシア人の故地で、ギリシア語でペルシスと呼ばれた)から、アルダシールという人物が現れた。のちの王家の伝えでは、祖父のササンは女神の神殿に仕える神官だったとされ、王朝の名はこの祖父に由来する。アルダシールは父の代から地方の権力を固め、周りの小さな王を次々に従えていった。

224年、アルダシールはパルティア最後の王アルタバヌス4世と戦い、これを討ち取った。のちにアルダシールは、この戦いを馬上で敵を突き落とす姿として岩に刻ませている。続いてメソポタミアの都クテシフォンに入り、「イランの王の中の王」を名乗った。息子の代には、これに「非イランの」という言葉も加えられた。
新しい王朝は、パルティアのやり方を受け継ぎながらも、王の力を強めようとした。地方の王家の多くは取り除かれ、王族や王の任命した者が各地を治めるようになった。都市が建てられ、灌漑が整えられた。王の権威を支える柱になったのが、ゾロアスター教である。王は神々に選ばれた者として描かれ、聖なる火を祀る神殿が各地に置かれた。

ゾロアスター教は、善の神アフラ・マズダと悪の力の戦いを説く、古いイランの宗教である(ゾロアスターの教え)。ササン朝のもとで神官の組織が整えられ、裁判や記録にも関わるようになった。3世紀後半には、大神官カルティールが力を持ち、キリスト教徒、仏教徒、ユダヤ教徒などを迫害したことを自ら碑文に書き残している。新しい宗教を説いたマニも、この時期に処刑された(マニの処刑)。ただし、どの時期にどこまで国家と宗教が一体だったかには議論があり、王たちの宗教政策も時代によって揺れた。いずれにせよ、ローマがキリスト教を国教とした380年(キリスト教の国教化)より150年あまり前に、宗教を王権の柱に据えた大国が生まれていたことになる。
アルダシールの息子シャープール1世の時代、ササン朝はローマを相手に大きな勝利を重ねた。244年には、攻め込んできたローマ皇帝ゴルディアヌス3世が遠征中に死に、後継の皇帝は賠償金を払って講和した。260年には、エデッサの近くでローマ皇帝ウァレリアヌスを捕虜にする(ローマ皇帝が捕らわれる)。ローマの皇帝が敵の捕虜になったのは、これが初めてだった。シャープールはこの勝利を、中世ペルシア語、パルティア語、ギリシア語の三つの言葉で石に刻ませ、自分が打ち負かしたローマの軍と、捕らえて連れ帰った兵士たちのことを誇っている。連れてこられたローマの捕虜は、イランの各地で町づくりや堤の工事に使われた。ナクシェ・ロスタムの岩壁には、馬上のシャープールの前にひざまずくローマ皇帝の姿が刻まれている。

それから400年、ササン朝とローマ、のちのビザンツ帝国は、メソポタミアとアルメニアをめぐって戦いを繰り返した。どちらも相手を滅ぼすには遠すぎ、勝って奪った土地も長くは保てなかった。4世紀末にはアルメニアを分け合う取り決めもなされている(ローマとササン朝のアルメニア分割)。6世紀にはホスロー1世の改革で税の仕組みが整えられ、ササン朝は最盛期を迎えた。
7世紀の初め、ホスロー2世はビザンツの混乱に乗じてシリア、エルサレム、エジプトを奪い、コンスタンティノープルまで迫った。だが皇帝ヘラクレイオスがイランの奥深くへ反撃し、628年、ホスロー2世は宮廷のクーデタで殺された。26年にわたる戦争で、両方の帝国は力を使い果たしていた。
その直後、アラビア半島からイスラームの軍が現れた。636年のカーディシーヤの戦いでササン朝の主力が敗れ、クテシフォンが落ちた。642年のニハーヴァンドの戦いで組織だった抵抗は崩れ、651年、最後の王ヤズデギルド3世が東のメルヴの近くで殺された。ササン朝は20年ほどで消え、ビザンツもシリアとエジプトを失った。

それでも、ササン朝の残したものは消えなかった。王の宮廷の儀礼や役所の仕組みは、のちのイスラームの王朝に受け継がれた。ササン朝の銀器やガラス器、織物の文様は、シルクロードを通って東へ伝わった。奈良の正倉院に伝わるガラスの碗には、ササン朝で作られたものと同じ型とされるものがある。イランの人々がイスラームを受け入れた後も、ペルシア語とペルシアの王たちの物語は生き続け、10世紀には叙事詩『王書』にまとめられた。