ローマ皇帝が捕らわれる
概要
ウァレリアヌス帝がシャープール1世に敗れて捕虜になった。ローマ皇帝が生きたまま捕らえられたのはこの一度きりで、その姿は岩壁の浮彫りに彫られて残っている。
場所
36.20°N 36.16°E · トルコ・ハタイ県
本文
3世紀の半ば、ローマ帝国は危機の中にあった(三世紀の危機)。皇帝は軍隊に立てられては殺され、数年ごとに入れ替わった。北ではゴート人などがドナウ川を越えて侵入し、東では新しい強敵が現れていた。224年にパルティアを倒して興ったササン朝ペルシアである(ササン朝の成立)。さらに250年ごろからは疫病が帝国を襲い(キプリアヌスの疫病)、兵も税も足りなくなっていた。
ササン朝の第2代の王シャープール1世は、ローマとの戦いで勝ち続けた。244年には、ローマ皇帝ゴルディアヌス3世が遠征中に死に、後を継いだフィリップス・アラブスは多額の金を払って講和した。250年代には、シャープールはシリアに攻め込み、東方随一の大都市アンティオキアを落として略奪した。

253年に即位したウァレリアヌスは、すでに60歳に近かったとされる。彼は息子のガリエヌスを共同皇帝として西方を任せ、自らは東方へ向かった。その治世の257年から258年にかけて、キリスト教徒への迫害を命じ、カルタゴの司教キプリアヌスやローマの司教シクストゥス2世が処刑されている。
260年、ウァレリアヌスは、北メソポタミアのエデッサの近くでシャープールと戦い、敗れて捕らえられた。どのように捕らえられたのかははっきりしない。疫病で弱った軍が包囲され、講和の交渉のために出向いたところを捕らえられた、という話も伝わる。シャープールが残した碑文は、自らの手でローマ皇帝を捕らえ、近衛長官や元老院議員を含む多くの者を連れ去ったと誇らしげに記している。ローマ皇帝が敵に生きたまま捕らえられたのは、後にも先にもこの一度だけである。

シャープールの碑文は、ナクシェ・ロスタムにある「ゾロアスターのカアバ」と呼ばれる石造りの塔の壁に、中世ペルシア語、パルティア語、ギリシア語の三つの言葉で刻まれている。ローマ帝国の各地から集めた7万の兵を破った、と書き、連れ去った人々を自分の領内の町々に住まわせたと記す。ペルシアの側が自分の言葉で残した、数少ない同時代の記録である。
ウァレリアヌスのその後については、確かなことは分からない。ペルシアで捕虜のまま死んだことだけは確かだが、ローマ側には恐ろしい話が伝わっている。シャープールが馬に乗るとき、ウァレリアヌスを踏み台にした。死後、皮を剥がれて赤く染められ、神殿に吊るされた、というものだ。これらを書いたのは、4世紀初めのキリスト教徒の著述家ラクタンティウスで、迫害者たちが神の罰を受けて惨めに死んだことを示すための書物の中である。そのまま信じることはできない。

捕らえられたローマ兵たちは、ペルシアの領内に移住させられた。彼らはイラン南西部の町々の建設に使われ、シューシュタルの川に架かる堰と橋は、ローマ兵の技術で造られたと伝えられている。
シャープールは、この勝利を岩に刻んだ。イラン南部のナクシェ・ロスタムの崖には、アケメネス朝の王たちの墓の下に、馬上のシャープールと、その前でひざまずくローマ人、手首をつかまれて立つローマ人を描いた浮き彫りがある。ひざまずく人物はフィリップス・アラブス、手首をつかまれた人物がウァレリアヌスとみるのが一般的である。ビーシャープールの浮き彫りにも、同じ主題が繰り返し刻まれている。
皇帝を失ったローマ帝国は、ばらばらになりかけた。
ウァレリアヌスの息子ガリエヌスは、父を取り戻そうとはしなかった。救出のための遠征を起こす余力が無かったのか、父の不在で単独の皇帝になれたことを喜んだのか、古代の歴史家たちはガリエヌスに冷たい。ローマの側の記録は、皇帝が捕虜になったという事実そのものを、あまり語りたがらなかった。西方ではガリアの軍がポストゥムスを皇帝に立てて独自の帝国を作り、東方ではパルミラの有力者オダエナトゥスが、引き上げるシャープールの軍を破って東方の守り手となった。その死後、妻のゼノビアは東方の広い地域を支配下に置く(ゼノビアのパルミラ)。帝国が再び一つにまとまるのは、270年代のアウレリアヌスの時代を待たなければならなかった(アウレリアヌスの帝国再統一)。