ローマとササン朝のアルメニア分割
概要
争ってきた緩衝地帯を二つに割って線を引いた。以後200年、東の国境はおおむね動かない。二つの帝国が互いを滅ぼしきれないと認めた線になる。
場所
36.20°N 36.16°E · トルコ・ハタイ県
本文
アルメニアは、ローマとペルシアという二つの大国の間にある山がちの王国だった。王家はパルティアの王族の分かれのアルサケス家で、3世紀にペルシアでササン朝が立ってからも(ササン朝の成立)、その王家はローマと結ぶことが多かった。二つの帝国は、この国を自分の側につなぎとめようと、200年近く争ってきた。
アルメニアは、啓蒙者グレゴリオスの働きで、4世紀の初めにキリスト教を国の宗教とした(アルメニアのキリスト教国教化)。ゾロアスター教を奉じるササン朝にとって、それはアルメニアがローマの側へ傾くしるしにも見えた。
4世紀の半ば、均衡が崩れる。363年、ペルシアへ遠征したユリアヌスが戦場で死に、後を継いだヨウィアヌスは軍を無事に退かせるため、国境の要塞都市ニシビスを手放し、アルメニアを支援しないと約束した。ササン朝のシャープール2世はすぐにアルメニアへ攻め込んだ。ローマはその後も介入を試みたが、378年のハドリアノポリスの戦いでゴート族に大敗し、東方に力を割けなくなった。

結局、二つの帝国は争いの的そのものを割ることにした。テオドシウス1世とシャープール3世のあいだで、アルメニアを東西に分ける取り決めが結ばれる。成立は387年ごろとされ、384年とする説もある。ペルシアが国土のおよそ5分の4を取り、ローマは西の端を取った。双方の側に、それぞれアルサケス家の王が立てられた。
王国はほどなく消えた。ローマ側の王家は数年で途絶え、ペルシア側の王家も428年に廃されて、ペルシアから総督が送られるようになった。国は失われたが、アルメニア人のまとまりは残った。405年ごろ、修道士メスロプ・マシュトツがアルメニア文字を作り、聖書を自分たちの言葉で読めるようにした。451年には、ゾロアスター教を強いようとするペルシアに対して大規模な反乱も起きている。

国を失ったアルメニアを支えたのは、ナハラルと呼ばれる大貴族たちだった。それぞれが世襲の領地と兵を持ち、ペルシアの総督のもとでも高い自立を保った。王がいなくても、貴族と教会と文字が、アルメニア人を一つの民として束ね続けた。
分割の後、東の国境はおおむね200年動かなかった。小競り合いはあり、6世紀には大きな戦争も何度か起きた。それでも、相手の都まで攻め落とそうとする戦争は少なくなった。二つの帝国が、互いを滅ぼしきれないと認めた線だった。どちらも北から来る遊牧民への備えに追われていたことも、この安定を支えた。

国境には、互いをにらむ要塞が築かれた。ローマは6世紀の初め、ニシビスのすぐ近くにダラの要塞を築き、ペルシアはこれを和約違反だと抗議した。それでも二つの宮廷は使節を送り合い、互いを兄弟と呼ぶ外交の言葉を使った。6世紀末の史家は、二つの帝国を「世界の二つの目」にたとえたペルシア側の書簡を伝えている。
6世紀には、ユスティニアヌス1世の時代に二度の大きな戦争があり、562年には50年の和約が結ばれた。ビザンツがペルシアに毎年金を払い、ペルシアはカフカスの峠を北の遊牧民から守る、という取り決めだった。金を払ってでも東の国境を落ち着かせ、西の再征服に力を注ぐ。ユスティニアヌスの選んだ道も、387年の線の上にあった。
その均衡が崩れるのが、7世紀の初めだった。602年、ビザンツ皇帝マウリキウスが殺されると、ササン朝のホスロー2世はその仇討ちを名目に大攻勢をかけた。シリア、エルサレム、エジプトが次々に奪われる。ヘラクレイオスは粘り強く反撃し、628年にペルシアを屈服させた(ヘラクレイオスの治世)。26年に及ぶ総力戦だった。
双方が消耗しきったところへ、アラブの軍が現れる(イスラムの大征服)。636年、ビザンツはヤルムークの戦いに敗れてシリアを失い、ササン朝はカーディシーヤの戦いに敗れてメソポタミアを失った。ササン朝は651年に滅び、ビザンツはエジプトまで手放した。200年守った線は、それを捨てた戦争の後に、両方とも失われた。