できごと

ローマとササン朝のアルメニア分割

Peace of Acilisene
AD387年
重要度 3
古シベリアの狩猟採集民ローマフィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民ササン朝ペルシアグプタ朝パルティアローマ(マクシミアヌス領)ローマ(ディオクレティアヌス領)サカ族の王国ローマ(コンスタンティヌス領)グプタ朝スーレーン家の王国ローマ(ガレリウス領)サータヴァーハナ朝メロエヒムヤル王国ガーナ王国アルメニアアクスム王国ヒンドゥーの諸王国ハドラマウトブレンミュエスYuebanAD387年アンティオキア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD387年の版図を描いています(24勢力)。

概要

争ってきた緩衝地帯を二つに割って線を引いた。以後200年、東の国境はおおむね動かない。二つの帝国が互いを滅ぼしきれないと認めた線になる。

場所

アンティオキア
36.20°N 36.16°E · トルコ・ハタイ県

本文

アルメニアは、ローマとペルシアという二つの大国の間にある山がちの王国だった。王家はパルティアの王族の分かれのアルサケス家で、3世紀にペルシアでササン朝が立ってからも(ササン朝の成立)、その王家はローマと結ぶことが多かった。二つの帝国は、この国を自分の側につなぎとめようと、200年近く争ってきた。

アルメニアは、啓蒙者グレゴリオスの働きで、4世紀の初めにキリスト教を国の宗教とした(アルメニアのキリスト教国教化)。ゾロアスター教を奉じるササン朝にとって、それはアルメニアがローマの側へ傾くしるしにも見えた。

4世紀の半ば、均衡が崩れる。363年、ペルシアへ遠征したユリアヌスが戦場で死に、後を継いだヨウィアヌスは軍を無事に退かせるため、国境の要塞都市ニシビスを手放し、アルメニアを支援しないと約束した。ササン朝のシャープール2世はすぐにアルメニアへ攻め込んだ。ローマはその後も介入を試みたが、378年のハドリアノポリスの戦いでゴート族に大敗し、東方に力を割けなくなった。

ハドリアノポリスの戦いに関わる図版:Battle of Adrianople 378 en
ハドリアノポリスの戦いWikimedia Commons Bitva_u_Adrianopole.gif : Elias84 derivative work: Dipa_1965 ( talk ) · Public domain

結局、二つの帝国は争いの的そのものを割ることにした。テオドシウス1世とシャープール3世のあいだで、アルメニアを東西に分ける取り決めが結ばれる。成立は387年ごろとされ、384年とする説もある。ペルシアが国土のおよそ5分の4を取り、ローマは西の端を取った。双方の側に、それぞれアルサケス家の王が立てられた。

王国はほどなく消えた。ローマ側の王家は数年で途絶え、ペルシア側の王家も428年に廃されて、ペルシアから総督が送られるようになった。国は失われたが、アルメニア人のまとまりは残った。405年ごろ、修道士メスロプ・マシュトツがアルメニア文字を作り、聖書を自分たちの言葉で読めるようにした。451年には、ゾロアスター教を強いようとするペルシアに対して大規模な反乱も起きている。

6世紀前半の作品
6世紀前半の作品Wikimedia Commons Wmpearl · Public domain

国を失ったアルメニアを支えたのは、ナハラルと呼ばれる大貴族たちだった。それぞれが世襲の領地と兵を持ち、ペルシアの総督のもとでも高い自立を保った。王がいなくても、貴族と教会と文字が、アルメニア人を一つの民として束ね続けた。

分割の後、東の国境はおおむね200年動かなかった。小競り合いはあり、6世紀には大きな戦争も何度か起きた。それでも、相手の都まで攻め落とそうとする戦争は少なくなった。二つの帝国が、互いを滅ぼしきれないと認めた線だった。どちらも北から来る遊牧民への備えに追われていたことも、この安定を支えた。

セレウコス1世のブロンズ像(ナポリ国立考古学博物館)
セレウコス1世のブロンズ像(ナポリ国立考古学博物館)Wikimedia Commons Allan Gluck · CC BY 4.0

国境には、互いをにらむ要塞が築かれた。ローマは6世紀の初め、ニシビスのすぐ近くにダラの要塞を築き、ペルシアはこれを和約違反だと抗議した。それでも二つの宮廷は使節を送り合い、互いを兄弟と呼ぶ外交の言葉を使った。6世紀末の史家は、二つの帝国を「世界の二つの目」にたとえたペルシア側の書簡を伝えている。

6世紀には、ユスティニアヌス1世の時代に二度の大きな戦争があり、562年には50年の和約が結ばれた。ビザンツがペルシアに毎年金を払い、ペルシアはカフカスの峠を北の遊牧民から守る、という取り決めだった。金を払ってでも東の国境を落ち着かせ、西の再征服に力を注ぐ。ユスティニアヌスの選んだ道も、387年の線の上にあった。

その均衡が崩れるのが、7世紀の初めだった。602年、ビザンツ皇帝マウリキウスが殺されると、ササン朝のホスロー2世はその仇討ちを名目に大攻勢をかけた。シリア、エルサレム、エジプトが次々に奪われる。ヘラクレイオスは粘り強く反撃し、628年にペルシアを屈服させた(ヘラクレイオスの治世)。26年に及ぶ総力戦だった。

双方が消耗しきったところへ、アラブの軍が現れる(イスラムの大征服)。636年、ビザンツはヤルムークの戦いに敗れてシリアを失い、ササン朝はカーディシーヤの戦いに敗れてメソポタミアを失った。ササン朝は651年に滅び、ビザンツはエジプトまで手放した。200年守った線は、それを捨てた戦争の後に、両方とも失われた。

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