マニ教の成立
概要
ゾロアスター教・キリスト教・仏教を一つに束ねようとした。西はローマ、東は唐まで広がったが、どこでも異端とされて消える。ウイグルでは一時国教になった。
場所
33.09°N 44.58°E · イラク
本文
3世紀の前半、メソポタミアはイランのパルティアから新しいササン朝へと支配者が代わる時期にあった(ササン朝の成立)。ティグリス川のほとりの都クテシフォンの周りには、ゾロアスター教徒、ユダヤ教徒、さまざまな流派のキリスト教徒、東から来た仏教の噂を知る商人たちが入り混じって暮らしていた。マニは216年、この地方の村で、ペルシア系の家に生まれた。父は禁欲的な洗礼の儀式を重んじるキリスト教系の教団に入っており、マニはその共同体の中で育った。
マニ自身の語るところでは、12歳のときに天からの使い「双子」が現れて啓示を与え、24歳になった240年ごろ、再び現れて、教団を離れて新しい教えを説けと命じた。マニは教団と袂を分かち、少数の弟子を連れて旅に出た。まず海路でインドの西北部へ渡り、仏教の盛んな土地で教えを説いた。戻ってからはササン朝の王シャープール1世に近づいて庇護を受け、王のために中世ペルシア語で教えの書を書いた。それから30年ほどのあいだ、マニは弟子を東西に送り出し、教団は急速に広がった。

マニの教えの核にあるのは、光と闇の二つの原理である。世界のはじめ、光の国と闇の国は分かれていた。だが闇が光を襲い、光の一部が闇に呑み込まれて、そこから物質の世界と人間が生まれた。人の体は闇でできているが、その中に光の粒が閉じ込められている。救いとは、自分の内にある光に気づき、それを闇から解き放って、もとの光の国へ帰すことである。世界の歴史は、光がすべて回収され、光と闇が再び分かれる終わりの時に向かって進んでいる。
マニは、自分の教えをそれまでの宗教の完成だと考えた。神はこれまでに、東ではブッダを、ペルシアではゾロアスターを(ゾロアスターの教え)、西ではイエスを遣わした。だが、彼らの教えは弟子たちに正しく書き残されず、歪められてしまった。自分は最後の使者として、教えを自分の手で書物に記し、誤りなく伝える、と。実際にマニは、自ら何冊もの経典を書き、教えを絵で示した画集まで作った。宗教の開祖が自分で経典を書いた、珍しい例である。

教団は、厳しい戒律を守る「選ばれた者」と、それを支える一般の「聴く者」に分かれていた。選ばれた者は、結婚せず、肉も酒も口にせず、財産を持たず、植物の中に閉じ込められた光を傷つけないよう、自分で畑を耕すこともしない。聴く者が食べ物を差し出し、選ばれた者がそれを食べることで、食べ物の中の光が解き放たれると考えられた。
マニの教えは、行く先々で、その土地の宗教の言葉を借りて説かれた。ローマ帝国ではイエスを、中央アジアや中国ではブッダの姿を前面に出し、経典もその土地の言葉と用語に訳された。それは広まるためには役立ったが、どこへ行っても、土地の宗教からは「自分たちに似せた異端」と見られることになった。

マニの晩年、ササン朝ではゾロアスター教の神官カルティールが力を強め、王が代わるとマニは捕らえられた。274年から277年ごろ、マニは獄中で死んだ(マニの処刑)。教団はイランでも迫害を受けたが、それでも東西へ広がり続けた。西では、エジプトや北アフリカ、ローマまで達し、ローマ皇帝ディオクレティアヌスはマニ教徒を厳しく罰する勅令を出した。のちにキリスト教の大きな思想家となるアウグスティヌスも、若いころの9年ほどをマニ教の「聴く者」として過ごし、回心してからはマニ教を批判する書物を書いた(アウグスティヌスの回心)。西方のマニ教は6世紀ごろまでにほぼ姿を消したが、中世のキリスト教会は、二元論を唱える異端を「マニ教徒」と呼び続けた。
東では、ソグド人の商人たちがシルクロードに沿って教えを運び、7世紀の末には唐の都に達した。8世紀、唐の安史の乱の鎮圧に加勢したウイグル可汗国の君主が、洛陽でマニ教の僧たちと出会って改宗し、マニ教はウイグルの国の宗教となった。一つの国が国の宗教としてマニ教を掲げたのは、歴史上これが唯一の例とされる。840年にウイグルの国が滅ぶと(キルギスのウイグル打倒)、唐はまもなくマニ教を禁じた。その後もマニ教は、中国の南部、福建の沿岸などで「明教」と呼ばれて民間の信仰に溶け込み、明の時代ごろまで細々と続いた。福建省の泉州の近くには、マニの像を祀った寺がいまも残っている。

長いあいだ、マニ教は敵対する側の書いた反駁の書物を通じてしか知られていなかった。20世紀に入って、中央アジアのトルファンや敦煌、エジプトの砂漠からマニ教徒自身の書いた経典や讃歌、絵が次々に見つかり、ようやくその姿が内側から分かるようになってきた。