ネヘミアのエルサレム城壁再建
概要
ペルシア王の献酌官だったユダヤ人が、総督として送られ、52日で城壁を築いた。周りの民が邪魔をし、片手に道具、片手に剣で働いたと自分で書いている。捕囚から戻った共同体の輪郭が、ここで決まった。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
本文
紀元前587年(586年とも)、新バビロニアの軍がエルサレムを落とし、ソロモンの神殿を焼き、城壁を崩して、王族と有力者をバビロンへ連れ去った(バビロン捕囚)。50年ほどのち、ペルシアのキュロス2世がバビロンを取ると(キュロスのバビロン征服)、捕囚の民には故郷へ帰ることが許された。帰った人びとは苦労の末、紀元前515年に神殿を建て直す。しかしエルサレムの町は小さく貧しく、城壁は崩れたまま、門は焼け落ちたままだった。周りの土地の有力者たちからは軽んじられ、商人も旅人も寄りつかない。
それからさらに70年ほどがたった。ネヘミアは、捕囚の民の子孫のユダヤ人で、アケメネス朝ペルシアの王アルタクセルクセス1世に仕え、冬の都スサの宮殿で献酌官を務めていた。王の杯に毒が入っていないかを確かめて差し出す役で、王の最も身近に仕える信頼の厚い職である。王の治世の20年目、紀元前445年ごろ、ユダから来た兄弟たちから、エルサレムの城壁が崩れ、門が焼かれたままだと聞いたネヘミアは、座り込んで泣き、何日も断食して祈った。

数か月後、王に酒を注いでいたネヘミアの顔の暗さに、王が気づいた。病でもないのに悲しげなのはなぜか、と問われて、ネヘミアは恐れながら事情を話した。王は、何を望むのかと尋ねた。ネヘミアは帰国の許しと、ユーフラテス川の西の総督たちへの通行の手紙、そして城門の梁にする木材を王の森から切り出す許可を求め、すべてを得た。こうしてネヘミアは、王の任命を受けたユダの総督として、兵と騎兵に守られてエルサレムへ向かった。
エルサレムに着いて三日目の夜、ネヘミアは数人だけを連れ、誰にも目的を告げずに城壁の周りを見て回った。崩れた石が積み重なって、乗っていた獣が通れない場所もあった。翌日、彼は町の人びとを集めて計画を明かし、城壁と門を家ごと、組ごとに区切って受け持たせた。祭司は羊の門を、金細工師や商人はそれぞれの区画を、自分の家の前の壁は自分で直す。『ネヘミア記』には、どの門のどの部分を誰が直したかが一つずつ書き連ねられている。

近隣の有力者たちは工事を嫌った。サマリアの総督サンバラト、アンモン人のトビヤ、アラブ人のゲシェム。はじめは嘲り、トビヤは「狐が一匹登っただけで崩れるような石垣だ」と笑った。壁が半分の高さまで上がると、彼らは攻め込む構えを見せた。ネヘミアは働き手の半分に槍と盾を持たせて見張らせ、石を運ぶ者は片手で仕事をし、片手に武器を持ち、積む者は剣を腰に帯びて働いたと書く。誰も夜に服を脱がなかった。工事は始めてから52日で終わったという。
城壁を築いたあと、ネヘミアは町の中を作り直した。凶作と重税のために、貧しい者が裕福な同胞から借金をして、畑を取られ、子どもを奴隷として売っていた。ネヘミアは貸し手を集めて叱りつけ、利息を取ることをやめさせ、取り上げた畑を返させた。総督に認められていた手当の食料も、民の負担になるとして受け取らなかった。のちに再び総督としてエルサレムに戻ったときには、安息日に商いをする者を締め出すために門を閉ざし、周りの民の女性と結婚した者たちを激しく責めた。律法学者エズラが民の前で律法の書を読み上げた場面も、『ネヘミア記』に記されている(二人の活動の前後関係には議論がある)。

『ネヘミア記』の中心には、本人が一人称で書いた回想録があると考えられている。「わが神よ、私がこの民のためにしたすべてのことを覚えていてください」という祈りが、何度も繰り返される。自分の働きを神と後の世に向けて書き残した、旧約聖書の中でも珍しい記録である。サンバラトの名は、エジプトのエレファンティネ島で見つかった紀元前407年の手紙にもサマリアの総督として出てきて、この物語の背景が史実であることを裏づけている。
城壁の内側で、帰還した人びとは周りと自分たちを分け、律法を守ることで一つにまとまっていった。神殿と律法を中心にしたユダヤ教の共同体の形は、この時代に固まったとされる。この第二神殿は、のちにヘロデ王によって大きく建て替えられ、紀元70年、ローマ軍によって破壊される(エルサレム神殿の破壊)。