できごと

十進法と位取りの記数法

Hindu–Arabic numeral system
AD4〜6世紀
年に諸説あり重要度 5
コイサンローマ西アフリカの穀作農民ササン朝ペルシア柔然晋ペルシアグプタ朝東ローマ帝国五胡十六国フン帝国スーレーン家の王国メロエサータヴァーハナ朝ヒムヤル王国コーカサスのアランアクスム王国ヒンドゥーの諸王国北涼ハドラマウトブレンミュエスYuebanチャンパシンハラAD4〜6世紀ウッジャイン
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概要

同じ数字が置く位置で値を変える書き方が固まった。計算が筆算でできるようになり、8世紀にバグダードへ、12世紀にヨーロッパへ渡って「アラビア数字」と呼ばれる。

場所

ウッジャイン
23.18°N 75.78°E · インド(グプタ朝の学術の中心)

本文

いま世界中で使われている数の書き方は、0から9までの10個の記号だけで、どんなに大きな数でも書ける。同じ「3」でも、右端に置けば三、一つ左なら三十、二つ左なら三百を表す。置く位置が値を決めるこの書き方を、位取りの記数法という。紀元4世紀から6世紀ごろのインド、グプタ朝の黄金時代の頃に、十進法の位取りが形を整えたと考えられている。

この書き方は、当たり前ではない。ローマ数字では、千はM、百はC、十はX、一はIと、位ごとに別の記号を使い、それを並べて足していく。1888年をローマ数字で書くとMDCCCLXXXVIIIと13文字になる。この書き方では、数字を縦にそろえて繰り上げながら足していく筆算という発想が、そもそも成り立たない。ローマの人々も中世のヨーロッパの人々も、計算は盤の上で石や玉を動かして行い、結果だけを数字で書き留めていた。

アショーカ王碑文に見られる最古のブラーフミー数字。ヒンドゥー・アラビア数字の祖形、紀元前250年頃
アショーカ王碑文に見られる最古のブラーフミー数字。ヒンドゥー・アラビア数字の祖形、紀元前250年頃Wikimedia Commons Smith, David Eugene, 1860-1944 · Public domain

位取りという考え方自体は、インドが最初ではない。古代メソポタミアでは、紀元前2000年ごろから60を一区切りとする位取りが使われていた(六十進法)。中国では計算用の棒を並べる算木が位取りで使われ、空の位は何も置かずに空けておいた。マヤでも、20を区切りとする位取りとゼロの記号が暦に使われている。だが、そのどれも、いまの世界の数字には直接つながらなかった。

インドの数字も、初めは位取りではなかった。紀元前3世紀のアショーカ王の碑文に使われた数字は、一から九のほかに、十、二十、百などにそれぞれ別の記号を持っていた。そこから、九つの記号だけを使い、位置で値を変える書き方へ移っていく。その変化がいつ起きたのかは、はっきりとは分からない。数を書いた古い写本はほとんど残っておらず、碑文には長く古い書き方が使われ続けたからである。

ヨーロッパに現れた最初のアラビア数字(スペインの『ウィギラヌス写本』976年)
ヨーロッパに現れた最初のアラビア数字(スペインの『ウィギラヌス写本』976年)Wikimedia Commons The original uploader was Srnec at English Wikipedia . · Public domain

位取りが文献の上ではっきり現れるのは、5世紀である。458年に書かれたとされるジャイナ教の宇宙論の書には、大きな数を位ごとに言葉で読み上げる書き方があり、空の位を「シューニャ(空)」と呼んでいる。499年にアーリヤバタが書いた天文学の書も、位取りを前提にして数を表している。

位取りには、ゼロが要る。たとえば「305」と書くとき、十の位に何も無いことを示さなければ、「35」と見分けがつかない。初めは空白にしたり、点を打ったりして「無い」ことを示した。北西インドで見つかった樺の樹皮の数学写本「バクシャーリー写本」には、点で空の位を示した数が並んでいる。2017年の炭素による年代測定で、その一部が3世紀から4世紀のものとされ話題になったが、測り方と解釈には異論もあり、年代はまだ定まっていない。

算術家(アルゴリスト)とそろばん使い(アバシスト)を描いた1503年の版画
算術家(アルゴリスト)とそろばん使い(アバシスト)を描いた1503年の版画Wikimedia Commons Gregor Reisch (author) / illustrator unidentified · Public domain

この点や小さな丸が、やがて「無い」ことを示す印から、それ自体が一つの数へと変わっていく。628年、天文学者ブラーマグプタは、ゼロに数を足しても引いてもその数のまま、ゼロに数を掛ければゼロ、という計算の規則を書いた(ブラーマグプタのゼロ)。負の数についても、財産と負債にたとえて、その計算の規則を示している。ただし、ゼロで割ることについては、ゼロをゼロで割るとゼロになるとするなど、今日から見ると正しくない答えを残した。ゼロで割ることの扱いは、はっきりしないまま残った。

ゼロの丸を記号として使った確かな碑文は、意外にもインドの外のほうが古い。いまのカンボジアとインドネシアで見つかった7世紀末の碑文に、空の位を示す点や丸を使った年号が刻まれている。インドの国内で確かな例として知られるのは、中部インドのグワーリヤルの寺院に残る9世紀の碑文である。インドの文化が東南アジアに広がっていたことを示す証拠でもある。

この記数法は、西へも渡った。7世紀の半ばには、シリアの一人の司教が、インド人は九つの記号で計算する、その方法は言葉で言い表せないほど優れている、と書き残している。8世紀、アッバース朝の都バグダードにインドの天文学の書がもたらされ、学問の中心だったバグダードの知恵の館の時代に、数学者フワーリズミーがインドの数字を使った計算の手引きを書いた。そのアラビア語の原本は失われたが、12世紀にラテン語に訳され、その書き出し「アルゴリズミはこう言った」から、計算の手順を意味する「アルゴリズム」という言葉が生まれた。

バグダードの知恵の館に関わる図版:Maqamat hariri
バグダードの知恵の館Wikimedia Commons Zereshk · Public domain

ヨーロッパに広めたのは、北アフリカで商売の計算を学んだイタリアのレオナルド・フィボナッチである。1202年の『算盤の書』で、インドの9つの数字と、アラビア語で「スィフル」と呼ばれる記号を使えば、どんな数でも書けると説いた(フィボナッチ『算盤の書』)。サンスクリット語の「シューニャ(空)」がアラビア語の「スィフル」になり、それがラテン語を経て、英語のゼロや、暗号を意味するサイファーになった。

普及には時間がかかった。1299年、フィレンツェの両替商の組合は、帳簿にこの新しい数字を使うことを禁じたと伝えられる。0は簡単に6や9に書き換えられ、不正に使われやすいと考えられたためだと説明されている。それでも商人たちは、筆算の便利さを手放さなかった。15世紀に印刷術が広まると、算術の教科書がこの数字を一気に広め、16世紀にはヨーロッパで普通の書き方になる。

計算盤(レヒェンティッシュ)
計算盤(レヒェンティッシュ)Wikimedia Commons Public domain

こうしてインドで生まれた記数法は、アラブ世界を経てヨーロッパへ入り、出所を一つ飛ばして「アラビア数字」と呼ばれるようになった。アラブ世界では、逆にこれを「インドの数字」と呼んでいる。どこから来たかを、それぞれが一つ手前の相手の名で覚えている。

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