フン人の西進とゲルマンの移動
概要
草原から来た騎馬集団が黒海北岸のゴート人を押し出し、その玉突きがローマの国境に達した。ヨーロッパの民族の配置が、この数十年で塗り替わる。
場所
47.50°N 34.00°E · ウクライナ・ロシア南部(スキタイの活動範囲)
本文
4世紀の後半、東の草原から騎馬の集団が現れ、黒海の北岸に住んでいた人々を押し出した。ローマ人が「フン」と呼んだ人々である。押し出されたゴート人はドナウ川を越えてローマ帝国の中へ逃げ込み、それが帝国を揺るがす大きな連鎖の始まりになった。375年はその目印の年とされるが、この年に何が起きたのかを直接書いた史料は乏しい。
一番詳しく伝えているのは、同じ時代を生きたローマの軍人で歴史家のアンミアヌス・マルケリヌスである。彼はフン人を、ほとんど人間離れした姿で描いた。背が低くずんぐりして、髭が無く、馬の上で食べ、眠り、取引までする。草の根と半ば生の肉を食べ、肉は馬の背と自分の腿のあいだに挟んで温めるだけだ、と。ローマ人の恐怖と偏見が混じった描写で、そのまま信じることはできない。だが、馬上から強い弓を自在に操る騎兵が、それまでの敵と違う速さで現れたことは伝わってくる。

フン人がどこから来たのかは、はっきりしない。18世紀のフランスの学者が、かつて中国の北方にいた遊牧の大勢力、匈奴の子孫ではないかと唱えた。名前の響きが似ていること、草原で使われた同じ形の青銅の大鍋が東西で見つかることなどが手がかりに挙げられるが、二つを直接つなぐ証拠はなく、議論はいまも続いている。中央アジアの草原で、さまざまな集団が合わさってできた人々だったのかもしれない。
分かっているのは、その動きの結果である。フン人はまずドン川のあたりにいたアラン人を破り、続いて黒海の北岸に広がっていた東ゴート人を攻めた。東ゴートの老王エルマナリクは、抵抗しきれずに自ら命を絶ったとアンミアヌスは書く。その西にいた西ゴート人は川を盾に防ごうとしたが、フン人の騎兵に回り込まれて崩れた。376年、多くの西ゴート人が家族を連れてドナウ川の岸に押し寄せ、川の南のローマ領に入って住むことを許してほしいと願い出た。

東の皇帝ウァレンスは、これを受け入れた。軍の兵士にできる人手が手に入ると考えたのである。何万もの人々が、船やいかだで川を渡った。だが、受け入れを任されたローマの役人たちは、約束の食料を十分に渡さず、それを横流しして儲けた。飢えた人々は、犬の肉と引き換えに自分の子どもを奴隷として売らされた、と史料は書いている。怒りが爆発し、ゴート人は武器を取ってバルカン半島を荒らし回った。
378年8月、ウァレンスは自ら軍を率いて、ハドリアノポリス(いまのトルコ西端のエディルネ)の近くでゴート人の陣営を攻めた(ハドリアノポリスの戦い)。西の皇帝からの援軍が近づいていたのに、それを待たずに手柄を独り占めしようとしたとも言われる。夏の暑さの中を行軍してきたローマ軍に、ちょうど戻ってきたゴートの騎兵が横から襲いかかり、ローマ軍は包囲されて崩れた。軍の3分の2が死んだとアンミアヌスは書いている。ウァレンスも戦死し、遺体は見つからなかった。ローマの皇帝が、帝国の中に受け入れた人々に討たれたのである。

後を継いだテオドシウス帝は、ゴート人を打ち負かすことはできず、382年、彼らを帝国の中に住まわせ、自分たちの首長のもとで同盟軍としてローマのために戦わせる取り決めを結んだ。帝国の中に、帝国のものではない軍を持つ集団が住むことになった。のちにその中から王アラリックが現れ、410年、ゴート人の軍がローマの町を略奪する(西ゴートのローマ略奪)。
以後100年、ヴァンダル、ブルグント、フランク、ランゴバルドなど、さまざまな集団が動く。406年の大晦日には、ヴァンダル人などの大集団がライン川を越えてガリアへなだれ込んだ。ヴァンダル人はスペインを経て北アフリカに渡り、カルタゴを本拠に王国を建て、455年にはローマを略奪した(ヴァンダルのローマ略奪)。

フン人自身も、やがて西へ進み、5世紀の前半には今のハンガリーの平原を本拠にした。王アッティラのもとで、東ローマ帝国から毎年大量の金を取り立て、451年にはガリアへ、翌年にはイタリアへ攻め込んだ。ガリアでは、ローマの将軍アエティウスが、かつてフン人に追われてきた西ゴート人らと手を組んで、これを食い止めている(カタラウヌムの戦い)。
だが、アッティラが453年に急死すると(アッティラの死)、息子たちの争いの中で、支配されていた諸民族が次々に背き、フン人の帝国はあっけなく崩れた。469年頃、アッティラの息子の一人の首がコンスタンティノープルで晒されたのを最後に、フン人はひとまとまりの勢力としては史料から消える。アッティラの死から20年たらずのことだった。

その7年後の476年、西ローマ帝国の最後の皇帝が、ゲルマン系の軍人オドアケルによって退位させられた(西ローマ帝国の滅亡)。かつての西ローマの土地には、西ゴート、フランク、ブルグント、東ゴート、ヴァンダル、そしてブリテン島のアングル人とサクソン人の王国が並ぶことになる。いまのフランスの名はフランク人から、イングランドの名はアングル人から来ている。ヨーロッパの民族の配置は、この数十年で塗り替えられた。
この動きは「民族大移動」と呼ばれる(物語「民族移動の時代」)。ただし、近年の研究では、民族がまとまったまま丸ごと移り住んだ、という見方は改められてきている。移動しながら他の集団の人々を取り込み、勝ち続ける指導者のもとに人が集まって、後から一つの名前が付いていった集団も多い。ゴート人と呼ばれた人々の中にも、さまざまな出自の者がいた。そもそも帝国が崩れたのは外からの侵入のせいなのか、内側の弱さのせいなのか、それとも崩壊というより長い時間をかけた変容だったのかも、研究者のあいだで議論が続いている。

押し出した側より、押し出された側の名前のほうが後に残った。フン人の名は、恐ろしい侵略者の代名詞として語り継がれただけだった。一方で、彼らに追われて川を渡ったゴート人やフランク人の建てた王国が、中世ヨーロッパの国々の出発点になっていく。