できごと

ヴァイキングの襲来

Sack of Lindisfarne
AD793年6月8日
重要度 4
ヴァイキングの襲来に関わる図版:T.homas Girtin Lindisfarne 1798
T.homas Girtin Lindisfarne 1798 Wikimedia Commons Thomas Girtin · Public domain

概要

修道院が襲われ、ヨーロッパは北からの脅威を知った。ヴァイキングはやがて交易者・入植者にもなる。

場所

リンディスファーン
55.68°N -1.80°E · イギリス・イングランド

本文

イングランド北東の沖に、干潮のときだけ歩いて渡れる小さな島がある。リンディスファーン、聖なる島とも呼ばれる。635年ごろ、ノーサンブリアの王オズワルドが、アイルランド系の修道士アイダンを招いてここに修道院を開いた。7世紀の司教カスバートの墓があり、北イングランドでもっとも名高い聖地の一つだった。715年ごろには、ここで豪華な装飾の福音書の写本が作られている(リンディスファーンの福音書)。

793年6月8日、北の海から来た者たちがこの修道院を襲った。年代記の写本には1月8日と書かれているが、船が北海を渡る季節から見て、6月の誤りと考えられている。修道士を殺し、あるいは奴隷として連れ去り、祭壇の金銀の器や宝物を奪って去った。

リンディスファーン島の日の出
リンディスファーン島の日の出Wikimedia Commons Chris Combe from York, UK · CC BY 2.0

イングランドの年代記は、この年の記事を不吉な前触れから書き起こしている。ノーサンブリアの空に激しい稲光とつむじ風があり、火を吐く竜が飛ぶのが見え、その後に大飢饉が来た。そして異教徒たちが神の教会を荒らした、と。北からの襲撃は、これが最初ではない。789年ごろには、イングランド南部のポートランドで、北欧から来た船の乗員が王の役人を殺したという記録がある。だが、聖地が襲われたことの衝撃は比べものにならなかった。

カール大帝の宮廷にいたノーサンブリア出身の学者アルクィンは、故郷の王に手紙を書いた。我々とその父祖がこの美しい土地に住んで350年近くになるが、異教徒からこれほどの恐怖を受けたことはなかった、海からこのような襲撃ができるとは思いもしなかった、という。アルクィンは、これを人々の罪に対する神の罰として受け止め、王と貴族に身を正すよう説いている。

リンディスファーンの石碑、通称「ヴァイキング来襲の日の石」。9世紀のノーサンブリアの墓石で、武装した戦士はヴァイキングの襲撃者とされる
リンディスファーンの石碑、通称「ヴァイキング来襲の日の石」。9世紀のノーサンブリアの墓石で、武装した戦士はヴァイキングの襲撃者とされるWikimedia Commons User:Schillerwein · CC0

修道院が狙われたのには理由がある。修道院には寄進された金銀の器や布、食料が集まっている。しかも海辺に建ち、城壁も兵もいない。キリスト教徒どうしの戦いでは、修道院は攻撃しないものとされていたが、北欧の異教徒にその決まりは関係がなかった。

なぜこの時期に北欧の人々が海を越えはじめたのかについては、いくつもの説がある。人口が増えて耕せる土地が足りなくなった、国内で王権が強まって居場所を失った者が外へ出た、北海やバルト海の交易で西の富の情報が伝わった、などである。カール大帝がザクセンを武力で征服し、キリスト教を強いたことへの反発を挙げる説もあるが、決め手はない。

確かなのは、それを可能にした船である。北欧の船は竜骨を持ち、帆と櫂の両方で進んだ。外洋を渡れるほど丈夫で、しかも喫水が浅く、川を遡り、浜に乗り上げることができた。海から突然現れて、守りが固まる前に去ることができた。

リンディスファーンの翌年にはノーサンブリアのジャロー、795年にはスコットランドのアイオナ島の修道院が襲われた。アイオナは9世紀の初めまでに何度も襲われ、修道士の多くが殺された。リンディスファーンの修道士たちも、襲撃が続く中で、875年にカスバートの遺骸を担いで島を離れた。長い放浪の末、遺骸はダラムに落ち着き、そこに大聖堂が建てられる。福音書の写本も、このとき運び出されて残った。

9世紀の半ばになると、襲撃は略奪から征服へ変わる。865年には大軍がイングランドに上陸して冬を越し(大異教軍のイングランド上陸)、ノーサンブリアをはじめ王国を次々に倒した。ウェセックスのアルフレッド大王がこれに抗い、やがてイングランドの東半分は北欧の法が行われる土地となった(ダーンローの成立)。

一方で彼らは交易者でもあった。東へ向かった人々は川をつたってバルト海から黒海・カスピ海まで行き来し、ノヴゴロドやキーウの支配者となった(ルーシの成立)。西ではフランスの王から土地を与えられた首領ロロがノルマンディー公国を開き(ノルマンディー公国の成立)、さらに西ではアイスランド、グリーンランド、そして北アメリカまで渡っている(ヴィンランド到達)。

1066年、ノルウェー王ハラルドがイングランドに攻め込んで戦死した(スタムフォード・ブリッジの戦い)。この年を、793年に始まった時代の終わりとする見方が一般的である。そのわずか3週間後、イングランドを征服したのは、ロロの子孫のノルマンディー公ギヨームだった。襲撃者の子孫が、いくつもの国の王家の起源になっていた。

同じ時代のできごと

ランゴバルド王国の滅亡AD774年ロンスヴォーの戦いAD778年8月15日十分の一税AD779年ラービアと神への愛AD780年頃両税法AD780年ヴェルデンの虐殺AD782年アーヘンの宮廷学校AD782年コルドバの大モスクAD785年(着工)
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