人物

ロロ

Rollo
AD860年頃 – AD930年頃(享年70・推定)
ノルマンディー公国重要度 3

概要

ノルウェーかデンマークのヴァイキングで、セーヌを遡って荒らし、西フランク王からノルマンディーを与えられ、洗礼を受けた。王の足に口づけを命じられ、部下に代わりにさせ、その部下が王の足を持ち上げてひっくり返した、と伝わる。

関わったできごと(1)

ノルマンディー公国の成立AD911年 · 初代公

本文

古ノルド語ではフロールヴ、ラテン語の記録ではロッロ。860年頃の生まれとみられる。北欧のどこから来たのかは、史料によって違う。13世紀のアイスランドのサガは、彼をノルウェーのメーレのラグンヴァルド伯の子とし、背が高く体が大きすぎて馬に乗れず、いつも歩いていたので「歩くフロールヴ」と呼ばれたと伝える。ラグンヴァルド伯は、ハーラル美髪王の伸び放題の髪を切った人物でもある。サガによれば、フロールヴは国内で略奪をはたらいたためにハーラル王に追放され、西の海へ出た。一方、ノルマンディーで書かれた記録は彼をデーン人とする。どちらが正しいかは決着していない。

ロロ
ロロWikimedia Commons Anonymous Unknown author · Public domain

9世紀のフランク王国は、北から来るヴァイキングの襲撃に悩まされ続けていた(物語「ヴァイキング」)。彼らは浅い喫水の船で川をさかのぼり、修道院や町を襲った。セーヌ川は格好の通り道で、845年にはパリが襲われている(ヴァイキングのパリ包囲)。885年から翌年にかけてヴァイキングの大軍がパリを長く包囲したとき、ロロもそこにいたと後世の記録は伝える。やがて彼の一団はセーヌ川の下流に根を下ろし、ルーアンを拠点とした。

911年、ロロはシャルトルを攻めたが、町の守りは固く、撃退された。西フランク王シャルル3世(単純王)は、この機会に戦いを終わらせる道を選んだ。セーヌ川の下流、ルーアンとその周りの土地をロロに与え、その代わりにロロは洗礼を受けてキリスト教徒となり、王に忠誠を誓い、ほかのヴァイキングがセーヌをさかのぼってくるのを防ぐ。毒を以て毒を制する取り決めだった。この合意は、エプト川のほとりのサン・クレール・シュル・エプトで結ばれたと伝えられるが、条約の文書は残っていない。ただ、918年のシャルルの文書に、セーヌのノルマン人、すなわちロロとその仲間たちに土地を与えたことが記されており、取り決めがあったことは確かである(ノルマンディー公国の成立)。

ロロは912年に洗礼を受け、洗礼名をロベールとした。代父はフランクの有力者ロベール(のちの王ロベール1世)だったとされる。王の娘ジゼルを妻に迎えたという話もあるが、確かな記録はなく、架空の人物とみる研究者もいる。実際にロロの跡継ぎを産んだのは、ポッパという女性で、正式な結婚ではなかったとされる。

ロロについて詳しく語る最初の書物は、100年ほどのちに、ロロの孫のリシャール1世の求めで修道士デュドン・ド・サン・カンタンが書いた『ノルマン人の慣習と事績』である。そこには有名な逸話がある。臣従の儀式で、土地を受ける者は王の足に口づけをするよう求められた。ロロは、自分は誰の膝にも頭を下げない、と言い、代わりに部下の一人に命じた。部下は身をかがめずに王の足をつかんで口元まで持ち上げたので、王は仰向けにひっくり返り、居並ぶ者たちは大笑いしたという。誇り高い祖先の物語として、公爵家のために書かれた話であり、事実かどうかは疑わしい。

ロロは与えられた土地を荒れたままにはしなかった。ルーアンの町を立て直し、略奪で散った人々を呼び戻し、教会に土地を返したと伝えられる。北欧から来た仲間たちは土地の女性と結婚し、数世代のうちにフランス語を話し、キリスト教徒として暮らすようになった。それでもノルマンディーの地名や海の言葉には、いまも北欧の語が残っている。ロロ自身はその後、西のベッサン地方などへ支配を広げた。

晩年の様子については、11世紀の年代記作者アデマール・ド・シャバンヌが奇妙な話を書いている。ロロは死を前にして正気を失い、キリスト教の教会に100ポンドの金を寄進する一方で、古い神々のために100人の捕虜の首をはねさせたという。洗礼を受けても、古い信仰を捨てきれなかったヴァイキングの姿である。930年頃に死んだとみられ、ルーアン大聖堂には彼の墓とされるものがある。

ロロの子ギヨーム長剣公、孫リシャール1世へと受け継がれた土地は、やがて王国の中でも最も強力な公領の一つ、ノルマンディー公国となった。1066年、ロロの子孫であるノルマンディー公ギヨームはイングランドに渡り、ヘイスティングズの戦いで勝ってイングランド王となった(ウィリアム1世)。同じころ、別のノルマン人の騎士たちは南イタリアとシチリアに国を建て(ノルマンのパレルモ征服)、のちには十字軍に加わってアンティオキアに国を開いた。セーヌの河口に土地をもらったヴァイキングの子孫は、200年のうちにヨーロッパのあちこちで王や公になっていた。

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