人物

アルフレッド大王

Alfred the Great
AD849年頃 – AD899年10月26日(享年50・推定)
ウェセックス重要度 3

概要

ヴァイキングの侵入を食い止め、法を整え、学問を英語に訳させた。イングランド生まれの王で「大王」と呼ばれる唯一の人。

関わったできごと(3)

アルフレッド大王のウェセックス871年 · 当人エディントンの戦いAD878年5月 · 勝ったダーンローの成立AD886年頃 · 条約

本文

849年頃、イングランド南部のウェセックス王国の王エゼルウルフの末の息子として、ウォンティジで生まれた。兄が4人いた。王になる予定は無かった。幼いころ、二度ローマへ旅しており、最初の旅のとき、教皇レオ4世から特別な扱いを受けたと記録されている。のちに伝記を書いた修道士アッサーは、少年アルフレッドが母の持っていた詩の本を、誰より早く暗唱して譲り受けた、という話を伝えている。

アルフレッド大王を描いた中世の写本挿絵
アルフレッド大王を描いた中世の写本挿絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

当時のブリテン島には、5世紀以来海を渡ってきたアングロ・サクソン人の王国がいくつも並んでいた(アングロ・サクソンのブリテン移住)。そこへ8世紀の末から、北の海を越えてヴァイキングが襲来するようになる。865年、デーン人の大軍が上陸し、ノーサンブリア、イースト・アングリアを次々に滅ぼし、マーシアも屈服させた。残ったのはウェセックスだけだった。

兄たちは次々に死に、王位は兄から兄へと移った。871年、デーン人との戦いが続く「戦いの年」のさなかに、最後の兄エゼルレッドが死に、22歳ほどのアルフレッドが王になった(アルフレッド大王のウェセックス)。即位の直後、彼は金を払ってデーン人と和を結ぶしかなかった。

886年のブリテン島
886年のブリテン島Wikimedia Commons Public domain

最大の危機は878年の初めに来た。デーン人の王グスルムが、キリスト教の祝日の時期に、王の滞在するチッペナムを不意に襲ったのである。アルフレッドはわずかな供とともに逃れ、サマセットの湿地の中の島アセルニーに隠れた。ウェセックスの多くの者がデーン人に従い、王国は消えかけた。

このとき、身分を隠して農家に身を寄せた王が、パンを焼くのを見ていてくれと頼まれたのに考えごとをしていて焦がし、何も知らない主婦に叱られた、という有名な話がある。王の謙虚さを伝える逸話として愛されてきたが、これは王の死から100年ほど後に書かれた聖人伝に初めて現れるもので、後に作られた話と考えられている。

アルフレッド大王の父エゼルウルフ(14世紀の『イングランド王系図巻』)
アルフレッド大王の父エゼルウルフ(14世紀の『イングランド王系図巻』)Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

数か月後の878年5月、アルフレッドは湿地を出て各地の兵を呼び集め、エディントンの戦いでグスルムの軍を破った。降伏したグスルムは洗礼を受け、アルフレッドがその名付け親になった。その後、両者は条約を結び、イングランドを斜めに分ける境界を定めた。北と東はデーン人の法が行われる土地、デーンローとなる(ダーンローの成立)。追い出すのではなく、境界を引いて共存したのである。

その後にやったことが大きい。デーン人がいつでも戻ってくることを見越して、王国じゅうに砦の町(バラ)を築かせた。どの村からも、一日で歩いて行ける距離に砦がある、という網の目である。農民の兵(フィルド)は二つに分け、半分が戦に出ているあいだ、もう半分は畑を耕せるようにした。デーン人の船より大きく速い船を、自ら考えて造らせたとも年代記は書く。886年にはロンドンを手に入れ、町を立て直した。そのとき、デーン人の支配下にいない「すべてのイングランド人」が彼に従った、と年代記は記している。

アルフレッド大王によるロンドン城壁再建を記す銘板
アルフレッド大王によるロンドン城壁再建を記す銘板Wikimedia Commons David ( talk ) · Public domain

法も整えた。昔の王たちの法を集め、旧約聖書の掟を冒頭に置いて、一つの法典にまとめた。そして、学問を英語に訳させた。デーン人の襲撃で修道院が荒れ、ラテン語を読める者が減っていた。彼は訳書の序文で、自分が王位に就いたころ、ハンバー川の南でもラテン語の祈りを理解できる者はほとんどいなかった、と嘆いている。だから、まず誰もが英語で読めるようにする。グレゴリウス1世の『司牧規則』をはじめ、哲学や歴史の書物を、自らも筆を取って訳した。ベーダの歴史書もこの頃に英語に訳されている。いまに伝わる『アングロ・サクソン年代記』の編纂が始まったのも、彼の宮廷においてだった。

体が丈夫ではなかった。アッサーは、王が若いころから原因の分からない病に苦しみ続けたと書いている。時間を無駄にしないよう、目盛りを付けたろうそくを灯して一日を区切った、という話もアッサーが伝える。

アルフレッド大王の銀貨(871-99年)。「サクソン人の王アルフレッド」の銘
アルフレッド大王の銀貨(871-99年)。「サクソン人の王アルフレッド」の銘Wikimedia Commons PHGCOM · Public domain

899年10月26日に死去した。50歳前後。ウィンチェスターに葬られたが、その墓はのちの修道院の取り壊しで失われ、遺骨の行方ははっきりしない。孫のアゼルスタンの代に、イングランドは一つの王国にまとまる。アルフレッドは、その土台を作った王とされる。

「大王」と呼ばれるようになったのは、死後何世紀もたってからのことだ。イングランドの王でこの呼び名を持つのは、ほかにデンマークから来たクヌートがいるくらいで、イングランド生まれの王では彼だけである。剣だけでなく、砦と法と書物で国を守ろうとした王として、いまも記憶されている。

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