ノルマンディー公国の成立
概要
襲撃者に土地を与えて定住させた。155年後、その子孫がイングランドを征服する。
場所
49.44°N 1.10°E · フランス・ノルマンディー地域圏
関わった人(1)
ロロAD860年頃–AD930年頃 · 初代公本文
9世紀のフランク王国は、北からの襲撃に苦しんでいた。793年にイングランドのリンディスファーン修道院が襲われてから(ヴァイキングの襲来)、北欧の船団は毎年のように海を渡り、川を遡って修道院や町を略奪した。浅い川にも入れる細長い船で、セーヌ川をたどればパリまで行ける。845年にはパリが包囲され、王が大金を払って引き揚げてもらった(ヴァイキングのパリ包囲)。カール大帝の帝国は孫たちの代に分かれ、西フランク王国の王たちは、内輪の争いと襲撃の両方に手を焼いていた。
やがて襲撃者のなかに、略奪して帰るのではなく、川の河口に冬営地を作って居座る者が出てくる。セーヌ川の下流に根を張った一団の首領が、ロロである。出自ははっきりしない。のちのノルマンディーの年代記はデンマークの出とし、アイスランドのサガは、歩くと馬が潰れるほどの大男だったノルウェーの「徒歩のフロールヴ」と同じ人物とする。どちらが正しいかは決着していない。

911年、ロロの軍はシャルトルを攻めて敗れた。西フランク王シャルル3世(単純王)は、この機をとらえて取引を持ちかけた。ルーアンを中心とするセーヌ川下流の土地をロロに与える。その代わりロロは王に臣従し、キリスト教の洗礼を受け、ほかの北欧の船団がセーヌを遡ってくるのを防ぐ。襲撃者を雇って、襲撃者への防壁にするという発想である。会見の場所はエプト川のほとりのサン=クレール=シュル=エプトと伝えられる。翌912年、ロロはルーアンで洗礼を受け、ロベールという名を得た。
ただし、この取り決めの文書は残っていない。様子を詳しく書いたのは、100年ほどあとに公の一族に仕えた聖職者ドゥドで、主君の祖先を立派に描く立場にあった。王の足に口づけするよう求められたロロが、自分は誰の前にも膝を屈しないと言って部下に代わらせ、その部下が立ったまま王の足を口元まで持ち上げたので王がひっくり返った、という有名な話も、こうした後世の記録に出てくるもので、そのまま事実とは受け取れない。王の娘ジゼルを妻にしたという話も、疑わしいとされる。同時代の確かな記録としては、918年の王の文書に、セーヌのノルマン人とその首領ロロに土地を与えたという一文があるだけだ。

土地は少しずつ広がった。924年に西の地方が加わり、933年にはロロの息子ギヨーム長剣公の代にコタンタン半島まで手に入れて、いまのノルマンディー地方の範囲がほぼ固まった。初めは「ルーアン伯」と呼ばれ、「公」の称号が定着するのはもう少しあとである。
彼らが土地の人々に溶け込む速さは際立っていた。もともと移り住んだ北欧人は多くなく、現地の女性と結婚し、数世代のうちにフランス語を話すようになった。10世紀の半ばには、ルーアンではもう北欧の言葉が通じにくくなり、公の跡継ぎは言葉を学ぶために、北欧系の住民が多いバイユーへ送られたと伝わる。それでも北欧の名残は、地名の語尾や船づくり、航海の腕に残った。彼らは「北の人」を意味するノルマン人と呼ばれ、フランス風の騎士の戦い方を身につけた戦士として知られるようになる。
ロロの五代あとの子孫にあたるウィリアム1世は、1066年にイングランドに渡って王位を奪った(ヘイスティングズの戦い)。911年からちょうど155年後である。ほぼ同じころ、ノルマンディーの下級騎士たちは南イタリアで傭兵として働き、やがて自分たちの国を作ってシチリアを征服し(ノルマンのパレルモ征服)、1130年には王国にした(ルッジェーロ2世のシチリア王国)。第1回十字軍では、南イタリアのノルマン人ボエモンがアンティオキアを落として、そこに公国を築いている。

一つの川の下流を襲撃者に任せた取引が、イングランドの王家とシチリアの王国につながった。ノルマンディー自体は1204年にフランス王に取り上げられるが、英仏海峡のチャンネル諸島はいまもイギリス王室の属領として残り、王はそこで「ノルマンディー公」と呼ばれている。