ダーンローの成立
概要
アルフレッドとグスルムの条約。テムズ川からリー川、ベドフォード、ウォトリング街道。東と北はデーン人の法、西と南はイングランド人の法。ヨーク、リンカン、ノッティンガム、ダービー、レスター。地名の -by と -thorpe、英語の they と egg と sky が、この線の向こうから来た。
場所
51.22°N -2.81°E · イギリス・サマセット
関わった人(2)
アルフレッド大王AD849年頃–AD899年10月26日 · 条約グスルム?–AD890年 · 条約本文
878年のエディントンの戦いで、ウェセックスの王アルフレッド大王はデーン人の首領グスルムを破り、グスルムは洗礼を受けてイースト・アングリアに移った。それからしばらくして、二人の王は、イングランドを東西に分ける境を定め、両方の民の間の決まりを取り決めた。その文書が「アルフレッドとグスルムの条約」として今に伝わっている。結ばれた年ははっきりしないが、アルフレッドがロンドンを押さえた886年ごろとする見方が多く、878年から890年のどこかと考えられている。
条約は、境をこう定めている。テムズ川をさかのぼってリー川に入り、リー川をその源までさかのぼり、そこからまっすぐベドフォードへ、さらにウーズ川をさかのぼって、ローマ時代の古い道ワトリング街道に至る。この線の南と西がアルフレッドのもとのイングランド人の土地、北と東がデーン人の住む土地である。ロンドンはアルフレッドの側に入った。

条約は境だけでなく、二つの民の付き合い方も定めた。殺された人の一族に払う償いの値(人命金)は、イングランド人もデーン人も同じとされた。馬や牛や奴隷を売り買いするときには証人を立て、互いの兵や逃亡者が境を勝手に越えないようにすることも決められた。勝った側と負けた側の上下ではなく、二つの民が並んで暮らすための取り決めだった。
境の北と東には、いくつかのデーン人の勢力が並んでいた。北にはヨークを都とするデーン人の王国があり、中部にはリンカン、ノッティンガム、ダービー、レスター、スタンフォードの「五つの町」と呼ばれる拠点が、南東にはグスルムのイースト・アングリアがあった。大異教軍のイングランド上陸の兵たちは、9世紀の末までに剣を鋤に持ち替えて土地に住みつきはじめた。876年にはノーサンブリアで、877年にはマーシアの東部で、880年にはイースト・アングリアで、首領たちが土地を分け与えたと年代記は記している。

この地域は、のちに「デーン人の法(ダーンロー)」の地と呼ばれるようになった。デーン人の慣わしにもとづく法が行われた土地という意味で、この呼び名が記録に現れるのは11世紀の初めである。土地の単位の数え方や裁判の仕方、罰金の額などが、イングランドの他の地方と違っていた。
デーン人の残したものは、地名と言葉にいちばんよく表れている。イングランドの東部と北部には、「農場」や「村」を意味する北欧の言葉に由来する「ビー」で終わる地名が数多くある。グリムズビー、ダービー、ホイットビー、ラグビーなどである。「ソープ」(小さな村)、「スウェイト」(開墾地)、「トフト」(屋敷地)で終わる地名も、北欧の言葉から来ている。英語の単語にも、北欧の言葉から入ったものが多い。彼ら(they、them、their)、空(sky)、皮膚(skin)、卵(egg)、ナイフ(knife)、窓(window)、夫(husband)、そして取る(take)、得る(get)、与える(give)などである。法(law)という語も、北欧の言葉から来た。古い英語と北欧の言葉はもともとよく似ていて、二つの民は互いに話が通じたとみられ、その混ざり合いが英語の文法を単純にしたという説もある。

境は長くは続かなかった。アルフレッドの子のエドワードと、マーシアの女主人となった娘のエセルフレッドは、910年代に城壁の町を築きながら北へ攻め上がり、五つの町やイースト・アングリアを取り戻した。954年、ヨークの最後のデーン人の王エイリーク(血斧王と呼ばれた)が追われて殺され、ヨークの王国も終わった。イングランドは一つの王国にまとめられた。
それでも、境の向こうの土地の性格は残った。1013年、デンマーク王スヴェン1世(双叉髭王)がイングランドに攻め込むと(スヴェンのイングランド征服)、まずこの地域の人々が彼に従った。その子クヌートはイングランドとデンマークをあわせて治めた(クヌートの北海帝国)。1066年にノルウェー王ハラルド苛烈王がまずヨークを目指して攻め込んだのも、北部に残る北欧とのつながりを当てにしたためだと言われる。デーン人の法そのものは、ノルマン人の征服の後、しだいにイングランド全体の法に溶け込んでいった。いまもイングランドの北部と東部の地図には、境の線を思い出させる地名がびっしりと並んでいる。