菅原道真
概要
学者から右大臣まで上り、藤原氏に讒言されて大宰府に流された。死後の天変が怨霊と恐れられ、やがて学問の神になる。
所属
日本関わったできごと(1)
遣唐使の中止AD894年 · 建議本文
菅原道真は845年、学者の家に生まれた。祖父の清公も父の是善も、大学で漢文と歴史を教える文章博士を務め、私塾「菅家廊下」には多くの門人が出入りした。道真は幼いころから漢詩を作り、11歳のとき、父の門人に試されて月夜の梅の花を詠んだ詩が伝わっている。18歳で文章生、のちに文章得業生となり、官吏登用の最難関の試験にも合格した。877年、33歳で家の職である文章博士に就いた。

学者としての道真は、中国の詩人白居易の詩に親しみ、自らも多くの漢詩を残した。正史『日本三代実録』の編纂にかかわり、国史の記事を項目ごとに分類し直した『類聚国史』も編んでいる。一方で、実務の官僚でもあった。886年から4年間、讃岐守として四国に赴任し、民の暮らしの苦しさを詩に詠んだ。
讃岐にいたあいだ、都では阿衡事件が起きていた。即位したばかりの宇多天皇が、関白の藤原基経に出した任命の文に「阿衡」の語があり、基経がそれを実権の無い名誉職だと言いがかりをつけて政務を放り出したのである。道真は基経に意見書を送り、事を荒立てないよう説いた。基経が死ぬと、宇多天皇は道真を重く用いた。藤原良房の摂政以来、天皇の外戚として力を伸ばす藤原氏を抑えたい天皇にとって、家柄に頼らず才で上ってきた学者は都合がよかった。
894年、道真は遣唐大使に任じられた。だがそのすぐ後、派遣を見直すよう朝廷に申し出る。唐の国内は乱れて衰えており、航海の危険に見合うものが得られない、という理由だった。派遣はそのまま立ち消えになり、以後、遣唐使は二度と海を渡らなかった(遣唐使の中止)。13年後の907年、唐そのものが滅んでいる。
897年、宇多天皇は位を醍醐天皇に譲るにあたり、道真と藤原時平の二人を頼るよう言い残した。899年、道真は右大臣となり、左大臣の時平と並んで政権の頂点に立った。学者の家から大臣にまで上ったのは、異例のことだった。それだけに、藤原氏や古い家の貴族たちの反感は強かった。

901年正月、突然、道真は大宰府への左遷を命じられた。大宰員外帥という名ばかりの官で、実際には流罪である。娘婿の斉世親王を皇位に就け、醍醐天皇を退けようと謀った、という罪だった。時平の讒言によるとされ、無実だったと考えられている。宇多上皇は内裏に駆けつけて取りなそうとしたが、門の中に入れてもらえなかった。子どもたちも各地に流された。都を出るとき、道真は庭の梅に向けて、東風が吹いたら香りを届けておくれ、主がいなくても春を忘れるな、という意味の歌を詠んだと伝えられる。その梅が主を慕って大宰府まで飛んだという飛梅の話は、後の伝説である。
大宰府では、壊れかけた官舎に住み、給与もろくに与えられなかった。この時期の漢詩を集めた『菅家後集』には、無実を訴え、都と家族を思う詩が並ぶ。903年2月、道真は大宰府で死んだ。59歳だった。
そのあと、都で異変が続く。909年、時平が39歳で死んだ。913年には、道真の追放にかかわった右大臣の源光が狩りの最中に沼にはまって死に、遺体も上がらなかった。923年、醍醐天皇の皇太子が21歳で死に、跡を継いだ幼い皇太孫も2年後に死んだ。930年には、宮中の清涼殿に雷が落ち、公卿たちが死傷した。衝撃を受けた醍醐天皇は病に倒れ、3か月後に世を去った。人々はこれを道真の怨霊のしわざと恐れた。朝廷は道真を右大臣に戻し、位を贈り、のちには太政大臣まで追贈している。939年に関東で起きた平将門の乱で、平将門が「新皇」を名乗ったときにも、その位を授けたのは道真の霊だと巫女が告げたと『将門記』は書く。

雷を落とす怨霊は、やがて天の神、天神として祀られた。947年、都の北野に社が建てられ、これがいまの北野天満宮になる。大宰府の墓所の上にも寺と社が建ち、太宰府天満宮となった。怒れる霊は、時代が下るにつれて和歌と漢詩に秀でた学問の神へと姿を変え、江戸時代には寺子屋に天神の絵がかけられた。受験の季節になると、いまも天満宮には合格を願う絵馬が鈴なりになる。