キュロス2世
概要
アケメネス朝の創始者。バビロンを無血で降し、捕囚のユダヤ人を故地へ帰した。
別名
キュロス大王
所属
アケメネス朝ペルシア関わったできごと(1)
キュロスのバビロン征服BC539年 · ペルシア側 · 総指揮本文
アケメネス朝ペルシアの創始者である。生まれは紀元前600年頃とされるが、正確な年は分からない。イラン高原の南西部、いまのファールス地方にあったアンシャンという小国の王家の出で、父はカンビュセス1世という。当時のペルシア人は、北のメディア王国に従う立場にあった(メディア王国とエクバタナ)。

その生い立ちについて、ギリシアの歴史家ヘロドトスは劇的な話を伝えている。母はメディア王アステュアゲスの娘で、王は孫が自分の国を奪うという夢を見て、生まれた赤子を殺すよう家臣ハルパゴスに命じた。ハルパゴスはそれを牧人に託し、牧人は死産した自分の子とすり替えてキュロスを育てた。10歳になったキュロスが、村の子どもたちの遊びで王役を務め、まるで本物の王のように振る舞ったことから素性が知れた、というものである。英雄の出生にまつわるよくある型の話で、そのまま事実とは考えられていない。ヘロドトス自身も、キュロスの生涯について複数の話を聞いたと書いている。
確かなのは、紀元前550年頃、キュロスがメディアの王アステュアゲスを破り、その都エクバタナを手に入れたことである。バビロニアの年代記は、アステュアゲスの軍が王に背いてキュロスに王を引き渡したと記す。メディアの貴族たちを殺さず、そのまま自分の国の支配層に組み込んだことで、ペルシア人とメディア人が一体となった大国が生まれた。

次の相手は小アジアのクロイソスだった。リュディアは世界で最も早く硬貨を作った国の一つとされ、クロイソスはその富で知られていた。ヘロドトスによれば、クロイソスはデルフォイの神託に、ペルシアと戦えば大きな国を滅ぼすだろうと告げられて戦いを始めた。滅んだのは自分の国だった。紀元前547年か546年頃、キュロスは都サルディスを落とした。捕らえられたクロイソスが火あぶりにされかけ、雨が火を消して救われたという話もヘロドトスに見えるが、これも伝承である。この征服で、小アジア西岸のギリシア人の町々がペルシアの支配下に入った。のちにペルシアとギリシアが争うことになる種は、ここでまかれた。
そして紀元前539年、当時世界最大の都市の一つだったバビロンに向かった(キュロスのバビロン征服)。新バビロニアの王ナボニドゥスは、都の主神マルドゥクの祭りを長く怠ったとして、神官たちの反感を買っていた。キュロスはティグリス川沿いのオピスで敵を破り、その後バビロンには大きな戦いなしに入城した。城壁とイシュタル門で知られる都で、ネブカドネザルのバビロンの時代に壮麗に造り変えられていた。

キュロスのやり方は、それまでのアッシリアやバビロニアの征服者とは違っていた。征服した土地の宗教と慣習を認め、町を破壊せず、住民を強制的に移住させることもしなかった。バビロンでは、自らを怠慢な王に代わってマルドゥクに選ばれた者と称し、ナボニドゥスが都に集めていた各地の神々の像を、もとの町の神殿へ返した。
そのなかに、バビロンに連れてこられていたユダヤ人たちがいた。半世紀前にネブカドネザルがエルサレムを滅ぼし、住民をバビロンに移していたのである(バビロン捕囚)。キュロスは彼らに帰国を許し、エルサレムの神殿を建て直すことを認めたと、旧約聖書の「エズラ記」は伝える。「イザヤ書」は、この異教の王を「主が油を注いだ者」、つまりメシアと呼んでいる。異邦人の王がこう呼ばれるのは、聖書の中できわめて異例である。ユダヤ教の伝統のなかで、キュロスは神の計画の道具となった恩人として記憶された。

1879年、バビロンの遺跡から、楔形文字が刻まれた樽形の粘土の筒が見つかった。キュロス・シリンダーと呼ばれ、いまは大英博物館にある。そこには、キュロスがマルドゥクの命でバビロンに平和に入ったこと、民の苦役を解き、神々をもとの場所に戻し、住民を故郷へ帰らせたことが記されている。20世紀に入ると、これが「世界最初の人権宣言」と呼ばれるようになった。1971年、イランの王政が建国2500年を祝ったときにはその象徴として大きく宣伝され、国連の本部にも複製が置かれている。
ただし研究者の多くは、この呼び方に慎重である。シリンダーの文面は、メソポタミアの王たちが新しく即位したときに神殿に納めた碑文の型に沿ったもので、前の王を悪く言い、新しい王の正しさを神の名で示す宣伝の性格が強い。ユダヤ人のことも直接には書かれていない。寛容だったのは理念よりも、広い版図を少ない人数で治めるための現実的な方法だった、という見方もできる。それでも、征服した民の神々を辱めないという方針が、帝国の安定に大きく役立ったことは確かである。

その後の歩みは史料が乏しい。東方では中央アジアのバクトリアなどへ支配を広げたとされる。死については話が分かれる。ヘロドトスは、紀元前530年、キュロスがカスピ海の東にいた遊牧民マッサゲタイの地に攻め込み、女王トミュリスとの戦いで討たれたと書く。女王が息子を殺された復讐に、キュロスの首を血で満たした革袋に入れたという凄惨な話まで添えている。一方、ギリシアの軍人で著述家のクセノフォンは、キュロスが故国で穏やかに死んだと書いた。遊牧民との戦いの中で死んだという見方が一般的だが、細部は分からない。
キュロスの墓は、自ら建てた都パサルガダエに今も残る。階段状の台の上に、切妻屋根の石室が載った簡素な建物である。200年後にこの地を征服したアレクサンドロス3世は、墓が荒らされているのを見て修復を命じたと伝えられる。後を継いだ息子のカンビュセス2世はエジプトを征服し、さらにダレイオス1世の時代に帝国はインダス川からエーゲ海に及ぶ大きさになった。

ギリシア人にとって、キュロスは敵国の王でありながら理想の君主の手本だった。クセノフォンは『キュロスの教育』という本で、彼を賢明な支配者の典型として描いている。ユダヤ人にとっては解放者、イラン人にとっては国の始まりを告げる王。それぞれの民が、それぞれの理由でこの王を良く記憶した。古代の征服者として、これほど敵からも好意をもって語られた人は珍しい。