ニネヴェ陥落
概要
新バビロニアとメディアの連合軍がアッシリアの都を落とし、帝国は崩れた。
場所
36.36°N 43.15°E · イラク・ニーナワー県(モースル)
関わった人(1)
ナボポラッサル?–BC605年 · バビロニア王本文
紀元前7世紀の半ば、アッシリアはオリエントのほぼ全域を支配していた。メソポタミアからシリア、パレスチナ、そしてナイル川の流域までを手に入れ(アッシリアのエジプト征服)、従わない町は焼き、住民を遠くの土地へ強制的に移した。都ニネヴェは、ティグリス川の東岸にあり、センナケリブ王が造った「比べるもののない宮殿」がそびえ、遠くの山から水を引く水道が庭園を潤していた。城壁は周囲12キロに及んだ。
最盛期の王アッシュルバニパルは、東のエラムの都スーサを破壊し、反乱した兄が治めるバビロンを包囲して屈服させた。その一方で、帝国の各地から粘土板の文書を集め、ニネヴェの宮殿に大きな文庫を築いた(ニネヴェの図書館)。だがアッシュルバニパルの晩年から死後にかけて、王位をめぐる争いが続き、帝国は急速に揺らいでいく。

紀元前626年、南メソポタミアのカルデア人の指導者ナボポラッサルが、バビロンで王を名乗った。アッシリアは何度もバビロンを取り戻そうとしたが果たせず、ナボポラッサルの新バビロニアは力を蓄えていった。東のイラン高原では、メディア人が王キュアクサレスのもとでまとまり、強大になっていた。
紀元前614年、メディア軍はアッシリアの古い都で、神々の聖地でもあったアッシュルを攻め落とし、住民を殺した。遅れて着いたナボポラッサルは、その廃墟でキュアクサレスと同盟を結んだ。のちに、ナボポラッサルの息子ネブカドネザル2世がメディアの王女を妃に迎えたのは、この同盟を固めるためだったと伝えられる。

紀元前612年の夏、新バビロニアとメディアの連合軍は、ニネヴェを囲んだ。バビロニアの年代記によれば、包囲は3か月ほど続き、町は落ちた。王シン・シャル・イシュクンは、この時に命を落としたとみられる。年代記は、町の財宝が大量に運び出され、町が瓦礫の山になったと記している。発掘では、城門の一つが急いで狭められた跡と、その中で倒れた多くの人骨が見つかり、最後の防戦の激しさを物語っている。
後のギリシアの著述家は、川の氾濫が城壁を崩したと伝え、最後の王が財宝と妃たちとともに火の中に身を投じたという物語も残した。旧約聖書のナホム書にも、川の門が開かれ、宮殿が溶け去る、という言葉がある。ただ、これらがどこまで実際の出来事を伝えているのかは分からない。ナホム書は、ニネヴェの滅亡を予言する形で、その都の残虐さを責め、滅びを喜ぶ言葉で満ちている。アッシリアに苦しめられた人々の思いが、そこに込められている。

アッシリアの残りの勢力は、西のハランに逃れて新しい王を立て、エジプトに助けを求めた。エジプト王ネコ2世は、アッシリアを助けるために北へ軍を進めた。その途中、メギドで行く手を阻もうとしたユダの王ヨシヤは、戦いの中で命を落とした。だがハランも落ち、紀元前605年、ナボポラッサルの息子ネブカドネザルがカルケミシュでエジプト軍を破って、アッシリアの名は歴史から消えた。
ニネヴェは二度と都として再建されなかった。勝者のバビロニアもメディアも、この地を治める拠点にしなかった。紀元前401年、ギリシアの傭兵を率いて帰国する途中だったクセノフォンは、ティグリス川のほとりの大きな廃墟の町を通り過ぎたが、それがかつての世界帝国の都だったことには触れていない。彼は、かつてメディア人が住んでいた町だと記しているだけである。
ニネヴェが再び人々の前に現れたのは、19世紀の半ばである。イギリスやフランスの調査隊が、イラクのモスルの対岸にある丘を掘り、巨大な宮殿の浮彫りと、数万枚の粘土板の破片を見つけた。宮殿が焼けたとき、粘土板は火で焼き固められ、かえって地中で長く保たれた。その中から、のちに『ギルガメシュ叙事詩』の洪水の物語が読み解かれ、旧約聖書のノアの話とよく似ていることが分かって、ヨーロッパに衝撃を与えた。

アッシリアの後を継いだ新バビロニアは、ネブカドネザルのもとで栄え(ネブカドネザルのバビロン)、エルサレムを滅ぼして住民をバビロンへ連れ去った(バビロン捕囚)。だがその新バビロニアも、ニネヴェの陥落から73年後、ペルシアのキュロスに倒される(キュロスのバビロン征服)。征服によって築いた帝国が、征服によって倒れる。その繰り返しの中で、焼かれた都の粘土板だけが、滅ぼされた者たちの言葉を残した。