キュロスのバビロン征服
概要
ペルシアがほぼ無血でバビロンに入り、捕囚のユダヤ人は故地へ帰ることを許された。
場所
32.54°N 44.42°E · イラク・バービル県
関わった人(1)
キュロス2世BC600年頃–BC530年 · ペルシア側 · 総指揮本文
紀元前539年の秋、ペルシアの王キュロス2世の軍が、メソポタミア最大の都バビロンに入った。高い城壁と堀に守られた古代世界随一の大都市が、ほとんど戦いもなく門を開いた。この日をもって、メソポタミアの人々が自ら治める最後の大国、新バビロニアは終わり、オリエントは東のイラン高原から来たペルシア人の帝国の時代に入る。そして、半世紀前にこの都へ連れて来られたユダヤの人々は、故郷へ帰ることを許された。
新バビロニアの全盛期を築いたのは、ネブカドネザル2世だった。彼はバビロンの町を壮麗に造り直し、青い釉薬の煉瓦に動物を描いたイシュタル門や、巨大な聖塔を建てた(ネブカドネザルのバビロン)。西ではユダ王国を攻め、紀元前586年にエルサレムとその神殿を破壊して、多くの住民をバビロンへ連れ去った(バビロン捕囚)。

だが、ネブカドネザルの死後、王位は短い期間に何度も入れ替わり、紀元前556年に即位したのがナボニドゥスである。彼は王家の出ではなく、この国の守り神であるバビロンの主神マルドゥクよりも、月の神シンを熱心に崇めた。さらに即位してまもなく、アラビアの砂漠のオアシス都市テイマに移り住み、10年ほども都を留守にした。そのあいだ政治は息子のベルシャザルに任された。王がいないため、王が主役を務める新年の大祭は何年も行われなかった。マルドゥクの神殿に仕える神官たちや、伝統を重んじる都の人々のあいだで、王への不満は大きくなっていった。
そのころ、東では新しい勢力が急に伸びていた。キュロスはイラン南西部の小さな王国アンシャンの王だったが、紀元前550年頃、それまでペルシア人を従えていたメディア王国を倒した。続いて小アジアに進み、富で知られたリュディアの王クロイソスを破って、その都サルディスを落とした。こうしてキュロスは、エーゲ海の岸からイラン高原の東までを手中にし、残るメソポタミアのバビロニアに向かい合うことになった。

紀元前539年、キュロスの軍はティグリス川のほとりのオピスでバビロニアの軍を破った。粘土板に楔形文字で記された当時の年代記によれば、その後まもなく北の都市シッパルが戦わずに降り、さらにその数日後、キュロスの部将ゴブリュアスの軍が、戦うことなくバビロンに入った。ナボニドゥスは捕らえられた。キュロス自身がバビロンに入城したのは、それから2週間余り後のことで、通りには緑の枝が敷かれて迎えられたと年代記は書く。
なぜ、これほど堅固な都が戦わずに落ちたのか。神官や住民の一部がナボニドゥスを見限り、ペルシア人を迎え入れたのだという説明がよくなされる。門が内側から開けられたという見方もある。ただ、年代記の記述は簡潔で、内部で何が起きたのかははっきり分からない。
後の時代の物語は、この陥落をもっと劇的に描いた。ギリシアの歴史家ヘロドトスは、ペルシア人がユーフラテス川の流れを脇へそらし、水位の下がった川床を伝って町に入り込んだ、そのとき町の中心部の人々は祭りの最中で、敵が入ったことにしばらく気づかなかった、と書いている(ヘロドトス『歴史』)。旧約聖書のダニエル書は、ベルシャザルが宴を開いていたとき、宙に現れた手が壁に謎の文字を書き、その夜のうちに王が殺されたと語る。いずれも年代記の伝える経過とは合わず、伝説とみるのが一般的である。

キュロスは、バビロンを壊さなかった。それどころか、自分こそがマルドゥク神に選ばれた正統な王であると宣言した。そのことを記したのが、1879年にバビロンの遺跡から掘り出された、樽のような形をした粘土の円筒、いわゆるキュロス・シリンダーである。アッカド語で刻まれた文章は、まずナボニドゥスが神々を怒らせ、民を苦しめたと非難する。そしてマルドゥクが、全世界を見渡して正しい王を探し、キュロスを選んで、戦わずにバビロンへ入らせた、と述べる。キュロスは、町の人々を重い労役から解き、かつてバビロンに運び込まれていた各地の神々の像を元の神殿へ返し、その土地の人々を故郷に戻した、と書かれている。
この円筒には、ユダヤ人の名は出てこない。だが、旧約聖書のエズラ記は、キュロスが即位の年に勅令を出し、捕囚のユダヤ人がエルサレムに帰って神殿を建て直すことを許した、と伝える。実際に帰還した人々は、何十年もかけて神殿を再建した。これが、のちにヘロデが改築し、紀元70年にローマ軍に焼かれることになる第二の神殿である(エルサレム神殿の破壊)。イザヤ書は、この異国の王キュロスを「主が油を注がれた者」と呼んでいる。神に選ばれた王や祭司を指すこの言葉が、ユダヤ人でない人物に使われたのは、旧約聖書でここだけである。

キュロス・シリンダーは、20世紀になって「人類最初の人権宣言」と呼ばれるようになった。1971年、イランの国王はペルシアの建国2500年を盛大に祝い、この円筒をその象徴として掲げた。国連の本部にはその複製が置かれている。だが、多くの研究者は、この呼び方に慎重である。円筒の文章は、新しい王が前の王を悪く言い、自分を神に選ばれた者として描き、神殿を修復したことを誇るという、メソポタミアの王の碑文の伝統的な型に沿っている。征服者が、新しく手に入れた都の神官と住民の支持を得るために書かせた、政治の宣伝文書としての性格が強い。
それでも、キュロスのやり方が、それ以前のアッシリアや新バビロニアの征服者と違っていたことは確かである。アッシリアは反抗した民を遠くへ移住させ、新バビロニアはユダの人々を連れ去った。キュロスは逆に、征服した土地の神々と慣習を尊重し、地元の有力者を通じて治めることで、多様な民族を抱える帝国をまとめようとした。その方針は、後継のダレイオス1世のもとで整えられた広大なアケメネス朝ペルシアに受け継がれていく(アケメネス朝ペルシア)。

バビロンは、ペルシアの支配のもとでも大都市であり続けた。約200年後、ペルシア帝国を倒したアレクサンドロスもまた、この都に入り(アレクサンドロスのバビロン入城)、ここを帝国の都にしようとして、この地で死んだ。バビロンが本当に衰えて砂に埋もれていくのは、それよりあとのことである。戦わずに開かれた門は、力で押さえつけるのではなく、征服された人々の神と誇りを立てることで支配する、という帝国の新しい作法の始まりでもあった。