アッシリアのエジプト征服
概要
オリエントが初めてひとつの帝国の下に入った。ただし支配は長く続かなかった。
場所
29.84°N 31.25°E · エジプト・ギザ県(ミート・ラヒーナ)
本文
紀元前8世紀の半ばから、新アッシリア帝国は北メソポタミアの一国から、西アジアの大半を治める帝国へと膨らんだ。シリアとレヴァントの小国は、貢ぎ物を納めるか、滅ぼされるかを選ばされた。その小国の背後にいて反乱をそそのかしていたのが、エジプトである。当時のエジプトは、南のヌビアから来たクシュの王たちが治めていた(クシュ王国のエジプト支配)。
アッシリアにとって、エジプトを叩かないかぎり西の国境は落ち着かない。前701年、センナケリブがユダ王国を攻めたときにも、エジプトとクシュの軍が救援に出てきている。センナケリブの子エサルハドンが、ついにエジプトそのものへ兵を向けた。

最初の遠征は前674年で、これは失敗に終わった。前671年、エサルハドンは再びシナイ半島の砂漠を越えた。水を運ぶためにアラブの部族のラクダを使ったと記録にある。ナイル・デルタで戦いを重ねて勝ち進み、首都メンフィスを落とした。クシュの王タハルカは傷を負って南へ逃れ、王妃と王子たちは捕らえられてアッシリアへ連れて行かれた。エサルハドンはシリアに立てた戦勝の碑に、縄で唇をつながれてひざまずく小さな人物を彫らせている。タハルカの王子だとする解釈がある。
これで、メソポタミアからレヴァント、アナトリア南東部、そしてエジプト北部までが一つの帝国の下に入った。西アジアと北東アフリカの古い文明の中心が、初めて一人の王の支配を受けたことになる。

エサルハドンはエジプトから財宝だけでなく人も連れ帰った。医師、占い師、書記、職人といった専門の技能を持つ者が、アッシリアの都へ移されたことが記録に残っている。帝国は、征服した土地の知識と技術を中心に吸い上げる仕組みでもあった。
ただ、アッシリアはエジプトを直接治めることはしなかった。デルタの都市ごとに地元の有力者を「王」として認め、アッシリアの役人を置いて見張らせた。その一人が、サイスのネコ1世である。アッシリア軍が引き揚げると、タハルカはすぐに戻ってメンフィスを取り返した。エサルハドンは前669年、再び遠征に向かう途中で病死した。

後を継いだアッシュルバニパルは、前667年ごろに軍を送ってタハルカを追い払い、前664年ごろにはタハルカの後継者タヌタマニが攻め上がってきたのを撃退した。このときアッシリア軍は南のテーベまで攻め込み、町を略奪した。アメン神の神殿から運び出された財宝と、2本のオベリスクがアッシリアへ持ち去られたと記録されている。旧約聖書の『ナホム書』は、のちにアッシリアの滅亡を予言するくだりで、このテーベの陥落を引き合いに出している。
アッシリアの強さは、常備の軍と攻城の技術、そして恐怖の使い方にあった。反抗した都市の住民の皮を剥ぎ、串刺しにし、その様子を宮殿の壁のレリーフに彫った。訪れた使者や家臣への見せしめでもある。征服した民を遠くへ移し、別の民を入れる強制移住も広く行った(アッシリアの強制移住)。

エジプトの支配は長続きしなかった。ネコ1世の子プサメティコス1世は、アッシリアの後ろ盾で王になったあと、しだいに自立していく。前650年代、アッシュルバニパルがバビロンを治める兄との内戦に追われている間に、プサメティコスはエジプト全土をまとめ、アッシリアの役人を追い出した(プサメティコス1世のエジプト再統一)。アッシリアの支配は、テーベの略奪からかぞえても10年ほどで終わった。
その数十年後、アッシリアそのものが崩れる。アッシュルバニパルの死後、内紛が続き、バビロニアとメディアが攻め上がって、前612年に首都ニネヴェが落ちた(ニネヴェ陥落)。広げすぎた領土を少ない中心で押さえようとしたこと、恐怖で治めたために従う者が機会を待って離れたことが、理由として挙げられる。皮肉なことに、最後の数年、アッシリアの残党と並んで戦ったのは、かつて征服したエジプトの軍だった。