人物

ヨシヤ

Josiah
BC648年 – BC609年(享年39・推定)
ユダ王国重要度 3

概要

8歳で王。父は暗殺された。18年目に律法の書が見つかり、宗教を一か所に集めた。アッシリアが崩れる隙に北へ広げ、メギドでエジプト王ネコの軍の前に出て、矢で死んだ。「彼のような王は前にも後にもなかった」と列王記。23年後、エルサレムはバビロンに滅ぼされる。

関わったできごと(1)

ヨシヤの改革BC622年 · 王

本文

ヨシヤはユダ王国の王アモンの子である。生まれは紀元前648年ごろとされる。祖父マナセは半世紀を超えて王位にあり、アッシリアに従属しながら異教の祭儀を国に入れた王として、聖書では厳しく書かれている。父アモンは即位して2年で家臣たちに殺された。すると「国の民」と呼ばれる人びとが暗殺者たちを討ち、8歳のヨシヤを王にした。紀元前640年ごろのことである。母はボツカテのアダヤの娘エディダだったと列王記は記す。

ヨシヤを描いたオーフス教会の装飾
ヨシヤを描いたオーフス教会の装飾Wikimedia Commons This image was produced by me, David Castor ( user:dcastor ). The pictures I submit to the Wikipedia Project are release · Public domain

幼い王の背後で誰が国を動かしていたかは分からない。歴代誌は、ヨシヤが16歳で「父祖ダビデの神を求め始め」、20歳でユダとエルサレムから異教の祭壇や像を取り除き始めたと書く。列王記では、改革は治世18年目、紀元前622年ごろの神殿修理から始まる。どちらの順序が正しいかは決めがたい。

そのころ、ユダを長く押さえつけてきたアッシリアは揺らいでいた。大王アッシュルバニパルが世を去ると(紀元前631年ごろとも627年ごろとも言われる)、後継争いが起こり、南のバビロンではナボポラッサルが王を名乗った。ヨシヤはこの空白を突いて北へ手を伸ばし、かつての北のイスラエル王国の聖所ベテルの祭壇を壊したと書かれている。100年前のイスラエル王国の滅亡以来アッシリアの属州になっていた土地である。支配がどこまで及んだかは学者のあいだで議論があり、聖書の記述ほど広くはなかったとする見方も強い。

ヨシアの最期(フランチェスコ・コンティ(英語版)作)
ヨシアの最期(フランチェスコ・コンティ(英語版)作)Wikimedia Commons Francesco Conti · Public domain

治世18年目、神殿の修理の最中に、大祭司ヒルキヤが「律法の書」を見つけた。書記シャファンがそれを王の前で読み上げると、ヨシヤは衣を裂いた。書かれた戒めが守られてこなかったと知ったからである。王が意見を求めたのは、エルサレムの新しい区画に住む女預言者フルダだった。同じころすでに語り始めていたエレミヤではなかった。フルダは、国には災いが下るが、悔いた王自身は「平和のうちに墓に葬られる」と告げた。

ここからヨシヤの改革が本格化する。地方の「高き所」の祭壇は壊され、そこで仕えていた祭司は退けられ、犠牲を捧げる場所はエルサレムの神殿一か所に限られた。神殿からはバアルやアシェラの祭具が運び出され、谷で焼かれた。そして王は、民をあげて過越の祭りを祝わせた。列王記は、士師の時代からこのような過越は行われなかったと書いている。見つかった書が、いまの申命記の中心部分にあたるという考えは19世紀に唱えられ、いまも有力である。ただし、書がこのとき「見つかった」のか、改革のために書かれたのかについては論争が続いている。

異教の神像を破壊するヨシヤ(ヨハン・ハイス画)
異教の神像を破壊するヨシヤ(ヨハン・ハイス画)Wikimedia Commons David.Monniaux · CC0

紀元前609年、エジプト王ネコ2世が軍を率いて海沿いを北へ上った。滅びかけたアッシリアの残党を助け、ユーフラテス川のほとりで新興のバビロニアと戦うためである。ヨシヤはメギドでその前に立ちはだかった。歴代誌によれば、ネコは「あなたと戦うのではない、邪魔をするな」と使いを送ったが、ヨシヤは聞かず、変装して戦いに出て矢に射られた。「私は重い傷を負った、連れ出せ」と言い、戦車でエルサレムに運ばれて死んだという。列王記はもっと短く、ネコがメギドでヨシヤを殺したとだけ書く。39歳ごろだった。なぜエジプトの大軍に挑んだのかは、聖書も語らない。

死の後、ユダは坂を転げ落ちた。民が立てた息子エホアハズは3か月でネコに廃されてエジプトへ連れ去られ、代わりに兄のエリアキムがエホヤキムと名を変えて王にされた。4年後、ネコはカルケミシュでネブカドネザル2世に敗れ、ユダはバビロニアの支配下に入る。エレミヤはヨシヤのために哀歌を作ったと歴代誌は記し、のちのエルサレムはバビロン捕囚で灰になった。

バビロン捕囚に関わる図版:Tissot The Flight of the Prisoners
バビロン捕囚Wikimedia Commons James Tissot · Public domain

列王記はヨシヤを、心を尽くし力を尽くして主に立ち返った王として、「彼のような王は前にも後にもいなかった」と最大の言葉でたたえる。それでいて、平和のうちに葬られるというフルダの言葉と、メギドの矢との食い違いを書き直さず残した。この扱いに、聖書の編集の跡を読み取る学者は多い。

改革する王としてのヨシヤの名は、後世にも呼び出された。16世紀のイングランドでは、9歳で即位したプロテスタントの少年王エドワード6世が「新しいヨシヤ」と呼ばれた。清教徒のあいだでジョサイアという名が好まれたのも同じ流れで、陶工ジョサイア・ウェッジウッドもその一人である。祖先のヒゼキヤと並んで、偶像を除いた王の典型として記憶された。

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