バビロン捕囚

概要
ネブカドネザル2世がエルサレムを陥とし、ユダの民をバビロンへ連れ去った。
場所
31.77°N 35.21°E · イスラエル/パレスチナ
関わった人(1)
ネブカドネザル2世BC634年頃–BC562年 · 新バビロニア側 · 総指揮本文
紀元前586年頃、新バビロニアの王ネブカドネザル2世の軍がエルサレムを陥とした。城壁は崩され、王宮と神殿は焼かれ、王族と指導層、職人たちがバビロンへ連れ去られた。ユダ王国はここで滅びる。陥落の年は、史料の読み方によって前587年とする説もある。
エルサレムは、前10世紀頃にダビデが都とし(ダビデのエルサレム)、その子ソロモンが神殿を建てた町だと聖書は伝える(ソロモンの神殿)。王国はソロモンの死後に南北に分かれ、北のイスラエル王国は前722年にアッシリアに滅ぼされて、住民の多くが各地へ移された(アッシリアの強制移住)。南のユダ王国は、アッシリアに貢ぎ物を納めながら生き延びた。前701年にはセンナケリブのエルサレム包囲にも耐えている。

前7世紀の末、そのアッシリアが崩れる。前612年に都ニネヴェが陥ち、代わって新バビロニアとエジプトが、シリアとパレスティナの支配を争った。前605年、皇太子だったネブカドネザルはカルケミシュでエジプト軍を破り、まもなく王になる。ユダ王国は、二つの大国のあいだで揺れ続けた。
ユダの王ヨヤキムは、一度はバビロニアに従ったが、やがて貢ぎ物を止めて背いた。前597年、バビロニア軍がエルサレムを囲み、ヨヤキムの死後に即位したばかりの若い王ヨヤキンが降伏する。王と母后、高官、兵士、鍛冶や職人たちがバビロンへ送られた。これが一度目の捕囚である。連れ去られた人数は、旧約聖書の中でも箇所によって1万人とも3千人あまりとも書かれていて、一致しない。ネブカドネザルは、ヨヤキンの叔父ゼデキヤを王に据えた。

この最初の陥落は、バビロニア側の記録にも残っている。年ごとの出来事を記した粘土板の年代記に、王がユダの町を囲み、王を捕らえ、自分の選んだ王を立てた、と記されている。さらに、バビロンの宮殿の跡から見つかった粘土板には、王宮から油を配給される者として「ユダの王ヤウキン」とその息子たちの名がある。聖書の伝えるヨヤキンが、捕囚の身でバビロンの宮廷に養われていたことが、相手側の帳簿で確かめられるのである。
ゼデキヤは、エジプトの助けをあてにして再び背いた。預言者エレミヤは、バビロニアに逆らえば滅びると説き、裏切り者として捕らえられた(エレミヤの預言)。バビロニア軍は1年半ほどエルサレムを囲み、町は飢えに苦しんだ末に城壁を破られた。ゼデキヤは夜に逃げ出したが捕らえられ、目の前で息子たちを殺されたうえで両目をつぶされ、鎖につながれてバビロンへ送られたと聖書は記す。1か月ほど後、神殿と王宮と町の大きな家々が焼かれた。二度目の捕囚になる。

連れ去られたのは、全住民ではない。王族、祭司、役人、職人といった、国を動かしていた層が中心で、貧しい農民の多くは土地に残され、ぶどう畑と畑を耕すよう命じられた。バビロニアが総督に任じたゲダルヤは、まもなく王族の一人に暗殺され、報復を恐れた人々の一部はエレミヤを連れてエジプトへ逃げた。ユダの民は、バビロン、エジプト、そして荒れた故郷に分かれることになった。
バビロンに移された人々は、奴隷として売られたのではなく、ユーフラテス川の運河沿いの村々にまとまって住まわされ、土地を耕して税を納めた。近年まとめて世に出た「アル・ヤフドゥ」(ユダの町)と呼ばれる村の粘土板文書には、ヘブライ語の名前を持つ人々の土地の借り受けや取引が記されている。人々は家を建て、子を育て、数世代のうちに土地に根を下ろしていった。

それでも、故郷を失った痛みは深かった。旧約聖書の詩編には、バビロンの川のほとりに座り、シオンを思って泣いた、と歌う一編が残る。
決定的だったのは、神殿を失ったことである。それまでのユダの信仰は、エルサレムの神殿で祭司が犠牲を捧げることを中心にしていた。神は神殿に住まい、神殿は神がその民を守る証のはずだった。その神殿が焼かれ、民が異国にいる。神はバビロンの神々に敗れたのか、という問いが突きつけられた。

捕囚の地で、答えが練り上げられていく。預言者エゼキエルや、イザヤ書の後半を書いた無名の預言者は、滅びは神の敗北ではなく、民が契約に背いたことへの神自身の裁きだと説いた。そして、神はエルサレムに縛られず、世界のすべてを治める唯一の神であり、いつか民を帰らせると語った。安息日を守ること、男児に割礼を施すこと、食べ物の決まりを守ることが、異国の中で自分たちを保つ印として重みを増した。
そして、書き留める作業が進んだ。王国の歴史、律法、預言者の言葉を集め、編み直す仕事が、捕囚の時期とその後に大きく進んだと多くの研究者は考えている。集まって書を読み、祈る場が、のちのシナゴーグ(会堂)の源になったともいわれる。ただし、会堂がはっきりと遺跡や碑文に現れるのは前3世紀以降で、捕囚期に生まれたというのは推測の域を出ない。
前539年、ペルシアのキュロス2世がバビロンにほとんど戦わずに入城する(キュロスのバビロン征服)。キュロスは、バビロンへ集められていた神々の像と人々を元の土地へ帰す方針をとり、ユダの民にも帰郷と神殿の再建を許したと旧約聖書のエズラ記は伝える。帰った人々は、苦労のすえに前515年頃、神殿を建て直した。第二神殿である。前5世紀には城壁も再建された(ネヘミアのエルサレム城壁再建)。
だが、帰らなかった人々も多かった。バビロンで生まれ育った世代には、そこが故郷になっていた。メソポタミアのユダヤ人の共同体はその後も千年以上続き、のちにユダヤ教の柱となるバビロニア・タルムードを生む。国を持たず、各地に散らばって暮らしながら、書物と律法によって一つの民であり続けるという、ディアスポラ(離散)の生き方の原型がここにある。
土地と神殿を失ったことが、持ち運べる宗教を作った。600年あまり後の紀元70年、第二神殿もローマ軍に焼かれる(エルサレム神殿の破壊)。そのときユダヤ教が滅びずに生き延びたのは、神殿が無くても信仰を続ける形を、すでにバビロンで一度身につけていたからだとも言われる。