ナボポラッサル
概要
カルデア人とされる。アッシリアの下で「誰の子でもない」と自分で書いた。BC626年にバビロンで王を名乗り、メディアと組んでニネヴェを焼いた。息子ネブカドネザルがカルケミシュでエジプトを破った年に死んだ。新バビロニアの建国者。
所属
新バビロニア関わったできごと(1)
ニネヴェ陥落BC612年 · バビロニア王本文
ナボポラッサルはアッカド語でナブ・アプラ・ウスル、「ナブ神よ、跡継ぎの息子を守りたまえ」という意味の名を持つ。新バビロニアを開いた王だが、その出自ははっきりしない。自分の碑文で彼は「誰の子でもない者」と名乗り、「民の中で知られぬ小さな者だった私を、神々が選んだ」と書いた。王の血を引かないことを、隠すどころか神の恵みの証として誇ったのである。長くバビロニア南部のカルデア人の出とされてきたが、近年は、南の古い町ウルクの有力な家の出で、アッシリアに仕えた役人の子だったとみる説も出ている。

当時のバビロニアは、北の新アッシリア帝国に支配されていた。アッシリアにとってバビロンは扱いにくい町で、紀元前689年にはセンナケリブのバビロン破壊によって町が水没させられたこともある。その後もバビロンでは反乱が繰り返された。転機は、大王アッシュルバニパルの死だった。その死の年は確かでないが、630年代の終わりから620年代の初めのことで、アッシリアでは息子たちや将軍の間で王位をめぐる争いが起こった。
その混乱の中で、ナボポラッサルはバビロンを押さえ、紀元前626年11月に王位に就いた。粘土板に記された「バビロニア年代記」が、この日付を伝えている。だが、すぐに国が手に入ったわけではない。アッシリア王シン・シャル・イシュクンは何度も南へ軍を送り、ニップルやウルクといったバビロニアの町をめぐる戦いが10年近く続いた。ナボポラッサルは町を一つずつ取り、紀元前616年ごろにようやくバビロニアからアッシリア勢を追い出した。

そこから反撃が始まる。ナボポラッサルはユーフラテス川をさかのぼってアッシリアの領内に攻め込んだ。このとき、かつてアッシリアと戦ったエジプトが、今度はアッシリアを助けに来た。勢いを増すバビロニアのほうが脅威だと見たのである。紀元前615年、ナボポラッサルはアッシリアの古都アッシュルを攻めたが落とせなかった。翌年、東のイラン高原からメディア王国とエクバタナの王キュアクサレスがアッシュルを攻め落とした。年代記によれば、ナボポラッサルの軍が着いたときには町はすでに落ちていて、二人の王はその廃墟で会い、盟約を結んだ。のちの歴史家ベロッソスの伝えでは、このとき王子ネブカドネザル2世とメディア王家の娘アミュティスとの結婚が決められ、のちにネブカドネザルが故郷の山を恋しがる妃のために空中庭園を造ったという。ただし空中庭園の話そのものが伝説の域を出ない。
紀元前612年、バビロニアとメディアの連合軍はアッシリアの都ニネヴェを囲み、3か月ほどで落とした(ニネヴェ陥落)。シン・シャル・イシュクンはこのとき死んだとみられる。旧約聖書のナホム書は、この都の滅亡を「流血の町」の最期として喜びとともに描いている。生き残ったアッシリアの一派は西のハランで、アッシュル・ウバリト2世を王に立てて抵抗したが、紀元前610年にハランも奪われた。翌年、エジプト王ネコ2世がアッシリアを助けるために大軍を北へ進めた。その途中、メギドで行く手を阻んだユダ王ヨシヤが戦死している。エジプトとアッシリアの軍はハランを取り戻そうとしたが果たせず、アッシリアの名はこれを最後に歴史から消えた。

ナボポラッサルは国の内側も整えた。アッシリアに壊されたバビロンの城壁を築き直し、町の中心にそびえるマルドゥク神の聖塔エテメンアンキの再建に取りかかった。のちに旧約聖書のバベルの塔の話の下敷きになったと考えられている塔である。その円筒碑文で、王は自ら土を運んで基礎を据え、長男ネブカドネザルと次男にも籠を担がせたと書いている。アッシリアの軛をバビロンの地から外した、という誇らしげな言葉も碑文に残る。
晩年のナボポラッサルは、軍の指揮を皇太子ネブカドネザルに任せるようになった。紀元前605年、ネブカドネザルはユーフラテス川上流のカルケミシュでエジプト軍を打ち破った。その知らせからまもなく、同じ年の夏、ナボポラッサルはバビロンで死んだ。年代記によれば、ネブカドネザルは急ぎ都に戻り、父の死からおよそ3週間後に王位に就いた。

ナボポラッサルが開いた王朝は、ネブカドネザルの時代にエルサレムを滅ぼしてバビロン捕囚を起こすほどの大国になり、紀元前539年のキュロスのバビロン征服まで87年続いた。のちの聖書のダニエル書では、「カルデア人」という語が占星術師の意味でも使われている。誰の子でもないと名乗った男の王朝の名は、いつしか天の星を読む人びとの呼び名になっていた。