モンジザールの戦い
概要
ハンセン病を患う16歳のエルサレム王ボードゥアン4世が、エジプトから侵入したサラディンの軍を破った戦い。
場所
31.90°N 34.80°E · イスラエル中部(ラムラ付近・正確な位置は諸説)
関わった人(1)
サラディンAD1137年頃–AD1193年 · エジプト軍の総指揮。敗走した本文
1174年、13歳でエルサレム王国の王位に就いたボードゥアン4世は、幼いころからハンセン病を患っていた。同じころ、王国の外ではサラディンが力を伸ばしていた。サラディンは1171年にエジプトのファーティマ朝を終わらせ、1174年にはダマスカスも手に入れた。エルサレム王国は、南のエジプトと北東のシリアから、一人の君主に挟まれる形になった。
1177年、フランドル伯フィリップが大軍を連れて巡礼にやって来た。ビザンツ帝国の艦隊とともにエジプトを攻める計画が持ち上がったが、話はまとまらず、フィリップはトリポリ伯レーモン3世とともに北シリアのハーリムの城を攻めに向かった。ホスピタル騎士団と多くのテンプル騎士団もこれに加わり、エルサレム王国の守りは手薄になった。

サラディンはこの隙を逃さなかった。11月、エジプトから軍を率いて王国の南に攻め込んだ。兵の数はティールのギヨームが2万6000と書いているが、多すぎるという見方もある。まだ16歳で、マラリアから回復しきっていなかったボードゥアンは、ルノー・ド・シャティヨンらとともに迎え撃ちに出た。ルノーは前年にアレッポの牢から解き放たれたばかりの、サラディンの宿敵である。ギヨームによれば、王が集められた騎士は375人だけだった。テンプル騎士団の主力はガザで足止めされた。
11月22日、サラディンはアスカロンに着いた。王の兵があまりに少ないのを見て、押さえの兵を残し、自らはエルサレムへ向かった。王国の中を進むサラディンの軍は、村々を荒らし食糧を集めながら広く散らばっていった。荷駄の列は川の渡しで遅れていたという。
ボードゥアンはアスカロンを抜け出し、テンプル騎士団の総長オド・ド・サンタマンの率いる騎士80人と合流して、サラディンの軍を追った。11月25日、両軍はラムラの近くのモンジザール(モンス・ギサルディ)でぶつかった。この地がどこにあたるかは諸説あり、アスカロンに近いテル・エス・サフィの丘とみる研究者もいる。
戦いの前、ボードゥアンは聖十字架の聖遺物を軍の前に掲げさせ、馬から降りてその前にひざまずき、勝利を祈ったと伝えられる。十字軍は散らばっていたサラディンの軍に襲いかかった。不意を突かれたエジプト軍は、態勢を整える間もなく崩れた。サラディンの甥タキー・アッディーンの子アフマドは最初の戦いで討たれ、サラディン自身もかろうじて逃れた。足の速いラクダに乗って逃げたと書いた年代記もある。
サラディンの軍は追われて散り散りになり、砂漠を越えて12月8日にカイロへ帰り着いた。ともに帰れたのは軍の1割ほどだったといわれる。もっとも、十字軍の損害も小さくはなかった。ホスピタル騎士団の総長ロジェ・ド・ムーランは、死者1100人、負傷して帰った者750人と伝えている。ボードゥアンは勝利を記念して、戦場にベネディクト会の修道院を建てた。戦いの日が聖カタリナの祝日だったので、修道院も聖カタリナに捧げられた。
兵力の差は、よく何十倍とも語られる。だが騎士以外の兵の数は記録に乏しく、いまの研究では、十字軍は重装の騎兵500人足らずに歩兵と弓兵が2500から4000人ほど、サラディンの軍はその数倍とみるのがふつうである。それでも劣勢の側が大勝したことに変わりはなく、イスラム側の歴史家はこの敗北をひどく重く受け止めた。
この勝利で王国はひとまず救われたが、サラディンの勢いが止まったわけではない。1179年にはマルジュ・アユーンでサラディンがボードゥアンを破った。王の病は年々重くなり、1185年に24歳ほどで亡くなった。その2年後の1187年、サラディンはヒッティーンの戦いで王国の軍を壊滅させ、エルサレムを奪い返す(サラディンのエルサレム奪還)。イスラム側では、モンジザールの屈辱はこのときようやく晴らされたと受け止められた。

病を押して戦った若い王の姿は、後世の人々を引きつけてきた。2005年の映画『キングダム・オブ・ヘブン』には、仮面をつけたボードゥアン4世が登場する。