クシュのメロエ遷都
概要
エジプトから退いたクシュは、ナイル上流のメロエで鉄と交易の国として続いた。独自の文字(メロエ文字)を持つが、いまも読み解けていない。
場所
16.93°N 33.75°E · スーダン
本文
ナイル川をエジプトから南へ遡ると、急流と岩の多い「瀑布」がいくつも続く。その上流、いまのスーダンにあたる土地は、古くからクシュと呼ばれた。エジプトはこの地から金や象牙、黒檀を手に入れ、時には軍を送って支配した。だが紀元前8世紀、立場は逆転する。ナイルの第4瀑布の近く、ナパタを本拠とするクシュの王たちが北へ攻め上り、エジプト全土を支配して第25王朝を開いたのである(クシュ王国のエジプト支配)。彼らはエジプトの神アメンを篤く信じ、エジプトの伝統の守り手を自任していた。
その支配は長く続かなかった。紀元前7世紀、アッシリアがエジプトに攻め込み(アッシリアのエジプト征服)、クシュの王タハルカとその後継者は南へ退いた。クシュの王たちはナパタに戻り、そこでなおエジプト風の王としてピラミッドを築き続けた。紀元前593年ごろには、エジプトの王プサムテク2世がクシュに遠征してナパタにまで迫ったとされる。王家の中心が、さらに南のメロエに移っていったのは、このころからだと考えられている。ただ、メロエはそれ以前から王の町の一つだったとみられ、遷都が一度に行われたのか、長い時間をかけて移っていったのかは、はっきりしない。王の墓がナパタの近くからメロエに移るのは、紀元前3世紀になってからである。

メロエは、ナイルの第5瀑布と第6瀑布の間、東岸に位置する。ナパタより南にあるぶん、夏に雨が降り、ナイルの水に頼らなくても牛を飼い、穀物を育てることができた。周りにはアカシアなどの林があり、地面には鉄を含む砂岩があった。メロエの遺跡の周りには、鉄を溶かしたあとの滓が丘のように積み上がっており、20世紀のはじめには、その様子から「アフリカのバーミンガム」と呼ばれた。もっとも、近年の研究では、製鉄の規模は思われていたほどではなかったという見方もある。メロエは、紅海の港やエジプト、さらに南のアフリカの内陸を結ぶ交易の中継地でもあり、象牙や金、香料、珍しい動物がここを通って北へ運ばれた。
時代が下るにつれて、クシュはエジプトの影を離れて独自の文化を育てていった。神殿にはエジプトの神々と並んで、獅子の頭を持つ戦いの神アペデマクが祀られた。王の墓は、エジプトのものより小さく、ずっと急な角度の尖ったピラミッドで、メロエの近くにはいまも200基ほどが砂漠に並んでいる。

もう一つの特徴は、女性の統治者である。メロエには「カンダケ」と呼ばれる王の母や王妃が強い力を持ち、自ら女王として国を治めた例もいくつもあった。紀元前1世紀の終わり、アウグストゥスのローマがエジプトを手に入れると、カンダケのアマニレナスの軍がエジプト南部に攻め込み、町を襲って、アウグストゥスの像を持ち去った。ローマ軍は報復に南へ攻め込んだが、最後は和平が結ばれ、クシュに有利な条件で決着した。持ち去られた像の青銅の頭部は、メロエの神殿の階段の下に埋められていたのが20世紀に見つかり、いまは大英博物館にある。踏みつけるためにそこへ埋めたとも言われる。新約聖書の『使徒言行録』には、「エチオピアの女王カンダケ」の高官が、エルサレムからの帰り道に洗礼を受けたという話が出てくる。
そしてメロエの人々は、自分たちの文字を作った。紀元前2世紀ごろから使われたメロエ文字で、エジプトのヒエログリフの形を借りた飾りの書体と、日常に使う崩した書体の二つがある。記号は23ほどしかなく、多くが子音と母音を組み合わせた音を表す。20世紀のはじめ、イギリスの学者グリフィスが、同じ名前がエジプト文字とメロエ文字の両方で書かれた例を手がかりに、それぞれの記号の音を突き止めた。だから、いまはメロエ文字を声に出して読むことができる。

ところが、読めても意味がほとんど分からない。メロエの言葉そのものが失われ、よく似た言葉がほかに残っていないからである。王や神の名、いくつかの決まり文句や単語は分かるようになり、近年はスーダンやその周辺のいくつかの言語と遠い親戚関係にあるとする研究も進んでいるが、長い文章を読み通すことはいまもできない。
メロエの王国は紀元後4世紀ごろに衰えた。交易の流れが東のアクスム王国に移り、アクスムの王エザナの碑文には、ナイルの流域に兵を出したことが記されている。メロエの文字はそれとともに使われなくなり、読むことのできない文字だけが、神殿の壁と墓の石に残された。