人物

マルティン・ルター

Martin Luther
AD1483年11月10日 – AD1546年2月18日(享年62)
神聖ローマ帝国重要度 5

概要

免罪符を問うた一修道士の文書が、印刷術に乗って西方教会を割った。聖書をドイツ語に訳す。

所属

神聖ローマ帝国

関わったできごと(2)

95か条の論題AD1517年10月31日 · 当人ルターのドイツ語訳聖書1522年9月 · 訳した

本文

1483年11月10日、神聖ローマ帝国の中部、ザクセン地方の町アイスレーベンに生まれた。父ハンスは農民の出で、銅の鉱山と精錬の仕事で身を立てた人だった。息子を法律家にして家を上げたいと考え、厳しくしつけた。ルターはのちに、両親の体罰の厳しさを回想している。

ルーカス・クラーナハ(父)工房によるマルティン・ルターの肖像
ルーカス・クラーナハ(父)工房によるマルティン・ルターの肖像Wikimedia Commons Workshop of Lucas Cranach the Elder · Public domain

エアフルト大学で学び、法学の課程に進んだ。1505年7月、帰省の帰りに野原で激しい雷雨に遭い、近くに落雷した。恐怖のあまり、聖アンナよ助けてください、修道士になります、と叫んだと伝わる。父の怒りを押し切って、2週間後にアウグスティヌス会の修道院に入った。

修道院では、誰よりも熱心に祈り、断食し、告解を重ねた。それでも、自分が神に救われるという確信が持てなかった。神は罪人を裁く恐ろしい存在であり、どれだけ善い行いを積んでも足りない。救われるのは行いによるのか信仰によるのか、という問いに長く苦しんだ。1510年にはローマへ旅をし、教会の中心の世俗ぶりも目にしている。

95Thesen
Wikimedia Commons Wittenberg: Melchior Lotter d.J., 1522 · Public domain

1512年、神学の博士となり、新しくできたヴィッテンベルク大学で聖書を講じた。パウロの「ローマの信徒への手紙」を読み込むうちに、正しい者は信仰によって生きる、という一節の意味がひらけたという。人は自分の行いではなく、神から与えられる信仰によってのみ義とされる。この読みにいつ至ったのかは、本人の回想と記録が食い違い、研究者の間で議論がある。

免罪符は、その読みからすると意味を持たない。金で罰が軽くなるなら、信仰は要らないことになる。当時、教皇レオ10世はローマのサン・ピエトロ大聖堂の再建の資金を集めており、マインツの大司教が自分の借金を返す分と合わせて、ドイツで免罪符を大々的に売らせていた。説教師テッツェルは、箱の中で金が鳴れば魂は煉獄から飛び出す、と説いたと伝わる。

1517年10月31日、ルターは免罪符の効力を問う95か条の論題をまとめ、大司教に送った。教会の扉に打ちつけたという有名な場面は、後年の同僚の記述にしかなく、本当にあったかは分かっていない。ラテン語で書かれた学者向けの議論のための文書だったが、すぐにドイツ語に訳されて刷られ、数週間のうちにドイツ中に広まった。グーテンベルクの活版印刷から60年余り、印刷術が初めて世論を動かした出来事とされる。

95か条の論題に関わる図版:Luther 95 Thesen
95か条の論題Wikimedia Commons Martin Luther · Public domain

1519年のライプツィヒでの討論で、ルターは教皇も公会議も誤ることがあると言い切った。一世紀前に異端として火刑にされたフスの主張にも、正しいものがあったと認めている。翌年には、教会の改革を訴える文書を立て続けに出し、自分を破門すると警告した教皇の文書を、学生たちの前で火に投じた。1521年1月、正式に破門される。

同じ年の4月、ヴォルムスで開かれた帝国議会に呼び出され、若い皇帝カール5世の前で、著作の撤回を求められた。ルターは、聖書と明白な理性によって誤りを示されない限り撤回はできない、と答えた。「我ここに立つ」という結びの言葉は広く知られているが、後から付け加えられた可能性があるとされる。皇帝はルターを法の保護の外に置き、誰が殺しても罪にならない身とした。

マルティン・ルターの父母の肖像画
マルティン・ルターの父母の肖像画Wikimedia Commons Lucas Cranach the Elder · Public domain

帰り道、ルターは覆面の騎士たちに連れ去られた。保護者であるザクセン選帝侯フリードリヒの手配で、ヴァルトブルク城にかくまわれたのである。騎士ゲオルクと名乗り、髭を伸ばして身を隠しながら、新約聖書をギリシア語の原典からドイツ語に訳した。11週間で終えている。1522年9月に刷られたルターのドイツ語訳聖書は、市場や家庭で人が話す言葉を選んで訳されていた。

その訳が印刷され、読み書きのできる平信徒が自分で聖書を読むという事態が生まれた。のちに旧約も含めた全訳が出て、この訳がドイツ語の書き言葉の標準になったと言われる。ルターは賛美歌も作り、「神はわがやぐら」はいまも歌われている。

聖アウグスチノ修道会時代のルター
聖アウグスチノ修道会時代のルターWikimedia Commons Lucas Cranach the Elder and workshop · Public domain

改革は、ルターの手を離れて走り始めた。1524年から翌年にかけて、南ドイツの農民が領主の重い負担に抗って立ち上がり、ルターの主張を根拠に掲げた。ルターははじめ領主たちの圧政を責めたが、蜂起が広がると諸侯の側に立ち、農民を打ち殺せという激しい文書を書いて鎮圧を支持した。農民の指導者ミュンツァーは処刑され、多くの農民が殺された。

1525年、修道院を逃げ出した元修道女カタリーナ・フォン・ボラと結婚した。司祭が結婚することは、それまでの教会の秩序を正面から否定することだった。6人の子に恵まれ、自宅にはいつも学生や客が集まり、食卓での発言は『卓上語録』として残っている。1529年、スイスの改革者ツヴィングリと会談したが、聖餐の理解をめぐって一致できず、改革の陣営は割れたまま進むことになる。

Lucas Cranach (I) workshop - Martin Luther (Uffizi)
Wikimedia Commons Workshop of Lucas Cranach the Elder · Public domain

ユダヤ人についても晩年に激しい文章を残している。若い頃は改宗を期待して好意的に書いたが、それが実らないと、会堂を焼き、家を壊せとまで書いた。この文章は20世紀にナチスに利用され、ドイツの福音主義教会はのちに公式に距離を置いている。

1546年2月18日、生まれ故郷のアイスレーベンへ出向いた旅先で死んだ。62歳。ルターが死んだ9年後、アウクスブルクの和議で、領主が自分の領地の宗派を選べることが認められた。ジャン・カルヴァンらの改革も加わり、西方教会は二度と一つに戻らなかった。一人の修道士の悩みが、ヨーロッパの地図を宗派で塗り分けることになった。

動画(2)

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