概要
木造の街で炉を焚くのは危険である、という理由で、ヴェネツィア共和国は硝子の工房をすべてムラーノ島へ移させた。火事の予防は本当の理由の一つでしかない。職人は島から出ることを制限され、技術は国家の機密として扱われた。娘は貴族と結婚でき、身分は高い。しかし国外へ逃げれば追手が向かい、暗殺された者がいると伝えられる。無色透明のクリスタッロ、そして水銀とスズによる平面鏡が、ここで完成した。
場所
45.44°N 12.32°E · イタリア・ヴェネト州
本文
**布告**。
**1291年**。
**ヴェネツィア共和国の大評議会が、**硝子の炉を、すべてムラーノ島へ移すこと**を命じた**。
**理由**——**火事**。
(——**ヴェネツィアの建物は、**木造が多い**。
**そして、**硝子の炉は、千度を超える**。
**昼夜、燃やし続ける**。
〈**実際に、**大火があった**。
**——これは、**本当の理由の一つ**である**。〉
**しかし、それだけではない**。)
**もう一つの理由**。
(——**技術を、**囲い込む**。
**島は、**本島から、約1.5キロ**。
**船でしか、行けない**。
**——**誰が出入りするか、把握できる**。〉)
**扱い**。
**職人(vetrai)は、**特権を与えられた**。
(**(1)**帯剣を許された**。
**(2)**共和国の役人による訴追から、一定の保護があった**。
**(3)そして——**娘が、ヴェネツィア貴族と結婚できた**。
〈**そして、その子は、**貴族として登録された**。
——**これは、**極めて異例である**。
**ヴェネツィアの貴族の身分は、**黄金の書**に登録された家系に限られていた**。〉
**(4)**ムラーノは、**独自の評議会と、独自の貨幣と、独自の黄金の書**を持った**。
——**事実上、**共和国の中の、小さな共和国**である**。〉)
**そして、拘束**。
(——**職人は、**共和国の許可なく、島を離れることができない**。
**技術を、**外へ持ち出すことは、禁じられた**。
**逃げた者は——**
〈**まず、**戻るよう、召喚される**。
**戻らなければ、**家族が投獄される**。
**それでも戻らなければ——**
**共和国の記録に、**追手を送るという趣旨の決定**が残っている**。
**そして、**実際に殺された、という話が、複数、伝えられている**。
——**ただし、**確実に立証された事例は、少ない**。
**「暗殺された」という記述の多くは、**後世の物語**である可能性がある**。
**それでも——**法として、そう定められていた**ことは、記録に残っている**。〉
**——つまり**。
**極めて厚遇される**。
**そして、**逃げられない**。〉)
**技術**。
**(1)クリスタッロ**(cristallo)。
(**15世紀半ば、**アンジェロ・バロヴィエール**が完成させた、とされる**。
**——**無色透明のガラス**である**。
〈**それまでのガラスは、**緑か、褐色を帯びていた**。
**原料の砂に含まれる**鉄**のためである**。
**方法**。
**(1)**極めて純度の高い原料を使う**。
——**シチリアと、レヴァントの、**アシ(サリコルニア)を焼いた灰**(ソーダ)。
**そして、**ティチーノ川の、白い小石**を砕いたもの**。〈石英が多い。〉
**(2)**灰を、水に溶かして、再結晶させて、精製する**。
**(3)そして、**マンガン**を、少量、加える**。
〈**「硝子職人の石鹸」**と呼ばれた**。
——**鉄による緑を、**補色で打ち消す**。
**つまり、**無色にするのではなく、色を相殺している**。〉
**——結果、**水晶(cristallo)のように透明なガラス**ができた**。〉)
**(2)鏡**。
(**それまでの鏡**——**磨いた金属**(青銅、銀、鋼)。
〈**像が、**暗く、歪む**。〉
**あるいは、**凸面の、小さなガラス鏡**(吹いた球の内側に金属を流す)。
〈**ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻』**(1434年)に描かれている、丸い鏡である**。〉
**ムラーノの方法**(16世紀初頭に確立)。
**(1)**平らなガラスの板を作る**。
〈**円筒状に吹き、**切り開いて、平らに延ばす**(シリンダー法)。〉
**(2)**その上に、**スズ箔**を敷く**。
**(3)そこに、**水銀**を流す**。
——**スズと水銀が、**アマルガム**を作り、ガラスに密着する**。
〈**極めて美しい像が得られる**。
**そして——**極めて危険である**。
**水銀の蒸気**。
**——職人の多くが、**震え、歯が抜け、精神を病んだ**。
〈**「帽子屋のように狂う」**という英語の表現は、**フェルト帽の製造で水銀を使ったこと**から来ている**。
**鏡の職人も、同じである**。〉
**この方法は、**19世紀末(銀鏡反応の実用化)まで、使われ続けた**。〉)
**値**。
(——**16〜17世紀、**ヴェネツィアの鏡は、極端に高価だった**。
**一枚の大きな鏡が、**同じ面積の絵画(ラファエロを含む)より高い**、と言われた**。
**そして、**同じ大きさの銀板より高かった**、とも**。
〈**フランスの記録**。
**1660年代、**ある貴婦人が、鏡一枚のために、農地を売った**、という話が伝えられる**。〉)
**流出**。
(——**それでも、**逃げた**。
**(1)**フランスへ**(1665年、コルベールが引き抜いた)。
**(2)**ボヘミアへ**。
〈**そして、ボヘミアは、**別の道**を行った**。
**——**カリガラス**(灰にカリウムを使う)に、**石灰**を加える**。
**硬い**。**そして、**厚く作って、削れる**。
——**カット・グラス**である**。
**17世紀末から、**ボヘミアが、ヴェネツィアを追い抜いた**。〉
**(3)**イギリスへ**。
〈**1674年、**ジョージ・レイヴンズクロフト**が、**鉛ガラス**を作った**。
——**屈折率が高く、**光る**。
**「レッド・クリスタル」**。
**そして——**光学用のレンズにも使われた**。〉)
**衰退**。
(**18世紀、**ムラーノは、既に、最先端ではなくなっていた**。
**1797年、**ナポレオンが、ヴェネツィア共和国を滅ぼした**。
**——**特権が、消えた**。
**そして、**組合が解散し、多くの工房が閉じた**。
〈**19世紀半ば、**復興運動**があった**。
**アントニオ・サルヴィアーティ**らが、**古い技法を再現した**。
**——それが、いまの「ヴェネツィアン・グラス」の直接の祖先である**。〉)
**いま**。
(**ムラーノに、**まだ工房がある**。
**——そして、**苦しんでいる**。
〈**燃料(天然ガス)の価格**。
**2022年、**エネルギー価格の高騰で、**炉を止めた工房が、いくつもあった**。
——**硝子の炉は、**一度止めると、再開に莫大な費用がかかる**。**〈内壁が割れる。〉**
**そして、**中国製の模造品**。
**「ヴェトロ・アルティスティコ・ムラーノ」**という原産地の商標が、作られている**。〉
**職人の数は、**減り続けている**。)