ムラーノの硝子職人
概要
木造の街で炉を焚くのは危険である、という理由で、ヴェネツィア共和国は硝子の工房をすべてムラーノ島へ移させた。火事の予防は本当の理由の一つでしかない。職人は島から出ることを制限され、技術は国家の機密として扱われた。娘は貴族と結婚でき、身分は高い。しかし国外へ逃げれば追手が向かい、暗殺された者がいると伝えられる。無色透明のクリスタッロ、そして水銀とスズによる平面鏡が、ここで完成した。
場所
45.44°N 12.32°E · イタリア・ヴェネト州
本文
1291年、ヴェネツィア共和国の大評議会は、市内にある硝子の炉をすべてムラーノ島へ移すよう命じた。表向きの理由は火事である。ヴェネツィアの町には木造の建物が多く、硝子の炉は千度を超える火を昼も夜も燃やし続ける。実際に大きな火事も起きていた。火を町から遠ざけることは、本当の理由の一つだった。
だが、理由はそれだけではなかった。ムラーノは本島から北へ1.5キロほど離れた小島で、船でしか行けない。職人をそこへ集めれば、誰が出入りするかを把握できる。硝子の技は、共和国にとって外へ漏らしたくない財産になりつつあった。島に閉じ込めることは、技術を囲い込むことでもあった。

職人たちは手厚く遇された。剣を帯びることを許され、共和国の役人による訴追からも一定の保護を受けたとされる。とりわけ異例なのは、親方の娘がヴェネツィアの貴族と結婚でき、その子が貴族の身分を失わなかったことだ。ヴェネツィアの貴族は「黄金の書」に名を記された家系に限られ、身分の壁は厚かった。ムラーノは自前の評議会を持ち、1602年には島独自の「黄金の書」も作られて、名門の硝子職人の家が記された。共和国の中にもう一つ小さな共和国があるような姿だった。
その代わり、職人は共和国の許しなしに島を離れることができず、技を外へ持ち出すことも禁じられた。逃げた者にはまず戻るよう命じ、戻らなければ家族を投獄し、それでも戻らなければ追っ手を送る、という定めが共和国の記録に残っている。国外で殺された職人がいるという話も複数伝えられる。ただし、暗殺が確かに立証された例は少なく、その多くは後世の物語である可能性がある。それでも、厚遇と引き換えに逃げられない、という仕組みが法として定められていたことは記録から分かる。

島で磨かれた技の第一が、クリスタッロと呼ばれる無色透明のガラスである。15世紀半ば、アンジェロ・バロヴィエールが完成させたとされる。それまでのガラスは、原料の砂に含まれる鉄のせいで緑や褐色を帯びていた。ムラーノの職人は、レヴァントやシチリアから取り寄せた塩生植物を焼いた灰(ソーダ)を水に溶かして精製し、ティチーノ川の白い小石を砕いて石英の多い原料を作った。そこへマンガンを少しだけ加える。マンガンは「硝子職人の石鹸」と呼ばれ、鉄による緑みを反対の色で打ち消す。色を抜くのではなく、相殺するのである。こうして水晶(クリスタッロ)のように澄んだガラスが生まれた。
第二が平らな鏡である。それまでの鏡は、青銅や銀、鋼を磨いた金属の板で、像は暗く歪んだ。ガラスの鏡もあったが、吹いた球の内側に金属を流し込んだ小さな凸面鏡で、ヤン・ファン・エイクの『アルノルフィーニ夫妻の肖像』(1434年)の奥の壁に掛かった丸い鏡がそれにあたる。16世紀の初め、ムラーノの職人は平らな大きな鏡を作る方法を確立した。ガラスを円筒形に吹いて切り開き、平らに延ばして板にする。その上にスズの箔を敷き、水銀を流すと、スズと水銀の合金(アマルガム)がガラスに密着して、明るくくっきりした像が映る。

この方法はとても危険だった。作業場には水銀の蒸気がこもり、職人の多くが手の震えや歯の脱落、心の病に苦しんだ。英語の「帽子屋のように狂っている」という言い回しは、フェルト帽を作るのに水銀を使ったことから来ているが、鏡の職人も同じ毒にさらされていた。それでも水銀の鏡は、銀を化学的に析出させる方法が19世紀後半に広まるまで作られ続けた。
16世紀から17世紀にかけて、ヴェネツィアの鏡は途方もなく高価だった。大きな鏡は同じ大きさの名画より高かったとも、同じ大きさの銀の板より高かったとも言われる。どこまで本当かは分からないが、鏡が王侯貴族の富を見せつける品だったことは確かだ。

それでも、技は外へ漏れていった。1665年、フランスの財務総監コルベールはムラーノの職人を引き抜き、パリに鏡の工房を開かせた。これが王立の鏡製作所となり、のちのヴェルサイユ宮殿の鏡の間を生む(鏡の間とサン=ゴバン)。ボヘミアでは、ソーダではなく木の灰のカリウムに石灰を加えた、硬く厚いガラスが作られた。厚く作れるので表面を深く削って飾ることができ、カット・グラスとして17世紀の終わりにはヴェネツィアを追い抜いていく。イングランドでは1670年代にジョージ・レイヴンズクロフトが鉛を加えたガラスを作った。屈折率が高くよく光るこのガラスは、鉛クリスタルとして食器の主流になり、レンズにも使われた。
18世紀には、ムラーノはもう最先端ではなくなっていた。1797年、ナポレオン・ボナパルトの軍の前にヴェネツィア共和国は滅び、職人たちの特権も消えた。組合は解かれ、多くの工房が閉じた。19世紀の半ば、アントニオ・サルヴィアーティらが古い技法を掘り起こして復興に努め、それがいま「ヴェネツィアン・グラス」と呼ばれる工芸の直接の祖先になった。

ムラーノにはいまも工房があるが、苦しい時代が続いている。炉の燃料の天然ガスは値上がりし、2022年のエネルギー価格の高騰では、炉を止める工房が相次いだ。硝子の炉は一度火を落とすと内壁が傷み、再開には大きな費用がかかる。安い模造品も出回り、本物を見分けるための原産地の商標「ヴェトロ・アルティスティコ・ムラーノ」が作られた。職人の数は減り続けている。
火事を避けるという理由で島へ移された職人たちは、700年あまりのあいだ、国家の機密の担い手として囲われ、守られ、縛られた。技術を国の財産として守ろうとする発想は、ヴェネツィアが1474年に定めた発明の独占の法(発明を独占させる)にも通じている。そしてどれほど囲っても、技はいずれ人とともに外へ出ていく。ムラーノの歴史は、そのことも教えている。