万国郵便連合
概要
それまで、外国へ手紙を出すには、経由する国ごとに二国間の取り決めがあり、料金の計算が誰にもできなかった。22か国がベルンに集まり、ドイツのシュテファンの案を受け入れた。世界を一つの郵便区域とみなす。料金は差出国が受け取り、配達する国に渡さない。中継する国には、重さに応じた運び賃を払う。切手はどの国のものでも本国のものが有効になる。国境を越える協力の、最も古く、最も静かに続いている仕組みの一つである。
場所
46.95°N 7.45°E · スイス
関わった人(1)
ハインリヒ・フォン・シュテファンAD1831年1月7日–AD1897年4月8日 · 提案本文
1860年代のヨーロッパで外国へ手紙を出すのは、ひと仕事だった。まず、手紙がどの国を通るかを考えなければならない。ロンドンからバルセロナへ送るなら、イギリスとフランスとスペインを通る。イギリスとフランスのあいだには郵便の条約があり、フランスとスペインのあいだにも別の条約がある。料金はそれぞれ違い、通貨も違い、重さの単位もオンスやグラムなど国ごとにばらばらだった。同じ手紙でも、どの国を経由するかで料金が変わった。
郵便局の窓口では、職員が分厚い料金表を引いて計算したが、それでも間違えた。料金が足りなければ受取人が不足分を払わされ、受け取りを拒まれることもあった。送る側は少しでも安く確実に届くように、封筒に「フランス経由」「ベルギー経由」と道筋を書き込んだ。国どうしの取り決めは二国ずつ結ばれていたから、国の組み合わせの数だけ条約が要った。

事務の手間も大きかった。郵便の代金を国どうしで分け合うために、国境を越えるたびに袋を開け、手紙を一通ずつ数え、重さを量って記録し、また袋を閉じる必要があった。国内では、イギリスが1840年に重さだけで決まる安い均一料金を始めて(ペニー・ブラックと郵便改革)以来、手紙はずっと出しやすくなっていた。しかし国境を一歩越えると、昔の煩雑さがそのまま残っていた。
最初に国際的な解決を試みたのはアメリカで、郵政長官モンゴメリー・ブレアの呼びかけで1863年にパリで国際郵便会議が開かれた。会議は原則について話し合ったが、具体的な仕組みを決めるまでには至らなかった。

仕組みの案を書いたのは、北ドイツ連邦の郵便を率いていたハインリヒ・フォン・シュテファンである。仕立屋の家に生まれ、若くして郵便局の見習いになり、現場の実務の中で国際郵便の煩雑さを見てきた人だった。1868年ごろ、彼は世界を一つの郵便の区域として扱うという構想をまとめた。加盟した国々の全体を一つの領域とみなし、国際郵便という特別な扱いを無くす。料金は重さで決め、どこへ送ってもほぼ同じにする。距離を料金の基準にしない。
いちばん大事だったのは、料金の取り方である。差し出した国が料金を全部受け取り、配達する国には渡さない。長い目で見れば、A国からB国へ行く手紙の数と、B国からA国へ来る手紙の数はおおよそ釣り合う。それなら各国が自分の受け取った料金で、相手から届いた手紙を配達すればよい。こうすれば国境で手紙を数えて精算する必要がなくなる。事務の量は劇的に減る。手紙が第三の国を通るときは、通過する国の郵便が運ぶことを約束し、その運び賃は重さに応じて決めた額で支払うことにした。

シュテファンは発想の豊かな役人だった。1865年には、封筒に入れずに短い文を書いて送れる郵便のカードを提案している。このときは採用されなかったが、1869年にオーストリアが郵便はがきを発行すると、各国がすぐに後を追った。のちにはドイツにいち早く電話を取り入れたことでも知られる。
会議は普仏戦争のために遅れ、1874年9月15日、スイスのベルンで開かれた。中立国スイスの首都が選ばれたのは偶然ではない。戦争からまだ数年しかたっておらず、フランスとドイツの代表が同じ卓に着くには、中立の場所が要った。ヨーロッパの国々のほか、アメリカ合衆国やエジプト、オスマン帝国など22か国が集まった。シュテファンの案はおおむね受け入れられ、10月9日にベルン条約が署名された。条約は翌1875年7月1日に発効し、一般郵便連合が発足した。加盟国はすぐに増え、1878年には万国郵便連合と名を改めた。
料金を計算する共通の単位として、当初は金で価値を定めたフランが使われた。のちに国際通貨基金の特別引出権に切り替えられ、いまも国どうしの精算はこの単位で行われている。
手紙は安くなり、確実に届くようになった。国境での数え直しは消え、料金表を引く手間も大きく減った。1906年には、外国の相手に返信の切手代を前もって渡せる国際返信切手券も生まれた。日本は1877年に加盟し、明治の初めのうちに国際郵便の網に加わった。
万国郵便連合は、いまも続いている。加盟国は192か国にのぼり、1948年からは国際連合の専門機関の一つになった。国連よりはるかに古く、国際機関としては1865年の国際電信連合の設立に次いで古い部類に入る。二つの世界大戦も冷戦も越えて続いてきた。戦争をしている国のあいだでも、郵便の取り決めの枠組みそのものは残ることがあった。国境を越える協力の中で、最も古く、最も目立たずに続いている仕組みの一つである。
もっとも、仕組みには歪みも生まれた。出す手紙と届く手紙が釣り合う、という前提が崩れたのである。20世紀の後半からは、配達する国が受け取る終着料金という精算の制度が整えられたが、その額は国の豊かさによって差が付けられ、安く抑えられた国から大量の小包が送られるようになった。とりわけインターネットの通信販売で、中国からアメリカへ小さな荷物が大量に届くと、アメリカの郵便は原価に足りない料金で配達することになった。2018年、アメリカは脱退を通告した。翌2019年、ジュネーヴで臨時の大会議が開かれ、配達する国が自分で料金を決められる余地を広げる合意ができて、アメリカは残った。
電子メールが広がり、手紙の量は世界中で減り続けている。一方で小包は増え、連合の仕事の中心も手紙から小包へ移りつつある。ベルンの市内の公園には、連合の発足を記念して1909年に建てられた像がある。地球のまわりで、五つの大陸を表す女性の像が手紙を手渡し合っている。世界を一つの郵便の区域にするという発想は、本初子午線会議やメートル条約と同じく、19世紀の後半に国境を越える約束ごとが次々に生まれた時代の産物だった。