できごと

ヴァイキングのパリ包囲

Viking siege of Paris
AD845年
重要度 3
カリフ国(正統・ウマイヤ・アッバース)北極圏の海獣狩猟民スラヴ系の諸部族ハザールペルミ系の人びとサーミ東ローマ帝国アヴァールアグラブ朝マクリア後ウマイヤ朝ノルマン人イドリース朝FinnsVepsMagyars第一次ブルガリア帝国Kareliansバルトの諸部族Rus' Khaganateデーン人Swedes and GothsIrlandaMercia大モラヴィア国Mariアストゥリアス王国EstsCzechsLombard duchiesAD845年パリ
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD845年の版図を描いています(30勢力)。

概要

120隻がセーヌを遡り、パリを取った。禿頭王シャルルは銀7000ポンドを払って帰らせた。デーンゲルド(デーン人への金)の最初の大きな例。以後40年で、パリは4回襲われる。

場所

パリ
48.86°N 2.35°E · フランス

関わった人(1)

ラグナル・ロズブローク率いた

本文

800年にカール大帝の戴冠を迎えたフランクの国は、西ヨーロッパの大半を一つにまとめていた。しかし大帝の孫たちの代になると、兄弟は国を奪い合って争い、843年、国は三つに分けられた。セーヌ川の流れる西フランクを受け継いだのが、末の弟の禿頭王シャルルである。兄たちとの争いは続き、地方の有力者は王の言うことを聞かなくなっていた。北の海から来る者たちにとって、これほど都合のよい相手はなかった。

スカンディナヴィアの人々の襲撃は、793年のヴァイキングの襲来から半世紀のあいだに、ブリテン島からフランクの沿岸へと広がっていた。彼らの船は喫水が浅く、海を渡るだけでなく、川を深く遡ることができた。修道院や教会には金銀の器や聖遺物があり、守る兵は少ない。841年にはセーヌ川の下流のルーアンが襲われていた。

ヴァイキングの襲来に関わる図版:T.homas Girtin Lindisfarne 1798
ヴァイキングの襲来Wikimedia Commons Thomas Girtin · Public domain

845年3月、およそ120隻の船団がセーヌ川を遡ってきた。フランクの年代記は、その首領の名をラグナル(レギンヘルス)と記している。後の北欧の伝説で名高いラグナル・ロズブロークと同じ人物なのかどうかは、分からない(ラグナル・ロズブローク(伝承))。シャルルは軍を集め、川の両岸に分けて置いて迎え撃とうとした。ところがヴァイキングは、兵の少ない片方の岸の部隊に襲いかかって打ち破り、捕らえた111人を、もう片方の岸の部隊から見えるところで吊るした。それを見た残りの部隊は戦意を失って退いた。

当時のパリは、セーヌ川の中の島、シテ島を中心とした町で、ローマ時代以来の古い城壁はあったが、王が住む都でもなかった。年代記によれば、ヴァイキングがパリに入ったのは復活祭の日だった。住民の多くは逃げ出し、町と周りの修道院は略奪された。左岸にあったサン・ジェルマン・デ・プレの修道院の修道士たちは、守護聖人の遺骸を抱えて逃れた。

ヴァイキングによるパリ包囲を描いた絵
ヴァイキングによるパリ包囲を描いた絵Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

シャルルは、戦って追い払うことをあきらめた。パリの北のサン・ドニの修道院で態勢を立て直したものの、兵は集まらず、地方の有力者たちも頼りにならなかった。彼はヴァイキングと交渉し、銀と金を合わせて7000リーブラ、重さにして2トンを超える財宝を支払って、引き揚げてもらった。ヴァイキングは約束どおりパリを去ったが、帰り道でも沿岸の村々を襲った。

ラグナルのその後については、修道院の側の記録が伝えている。故郷に戻った彼は、デンマークの王ホーリクに、フランクの土地は豊かで、人々は臆病だったと報告した。ところが、パリから持ち帰った略奪の品とともに疫病が広がり、ラグナルもその年のうちに死んだという。聖人の修道院を荒らした報いだ、と修道士たちは書いた。

ラグナル・ロズブロークを描いた中世写本(大英図書館 Harley MS 2278)
ラグナル・ロズブロークWikimedia Commons Uncertain. The manuscript may have been compiled under the direction of John Lydgate (d. 1449/1450). · Public domain

金を払って帰らせるやり方は、その場しのぎにはなった。しかし、フランクの王が金を払うと知ったヴァイキングは、また来た。856年から翌年にかけて、パリは再び襲われ、多くの教会が焼かれた。861年にもまた来た。王は貢納を集めるために国中に税をかけ、そのたびに民の暮らしは苦しくなった。こうした支払いは、のちにイングランドで「デーン人への金」、デーンゲルドと呼ばれたものの、大陸での早い例である。

885年11月、数百隻の大船団がパリを囲んだ。このときパリは、橋の両端に塔を築き、川を封じて抵抗した。パリ伯ウードと司教ゴズランが町を守り、包囲は翌年まで11か月近く続いた。ゴズランは包囲のさなかに病で死んでいる。ようやく駆けつけた皇帝カール肥満王は、戦わずに銀を払い、ヴァイキングがセーヌをさらに上ってブルゴーニュを荒らすことまで許して、包囲を解かせた。カールは翌887年に廃され、町を守り抜いたウードが、カロリング家の外から初めて西フランクの王に選ばれた。ウードの一族からは、のちにユーグ・カペーが出て、カペー朝を開くことになる(ユーグ・カペーの即位)。

911年、シャルル単純王は、セーヌ川の河口の一帯を、ヴァイキングの首領ロロに与えた。金の代わりに土地を与え、その土地に住みついた者たちに、川の入口を守らせたのである。これがノルマンディー公国の成立で、セーヌを遡る襲撃はそれで止んだ。845年に金で帰らせた略奪者たちの子孫は、やがてフランス語を話すノルマン人となり、1066年にはイングランドを征服することになる。

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