マンティネイアの戦い
概要
テーバイのエパメイノンダスがスパルタ・アテナイ連合軍を破った会戦。勝った将が戦死し、テーバイの覇権も崩れた。
場所
37.60°N 22.40°E · ギリシャ・ペロポネソス地方アルカディア県
関わった人(1)
エパメイノンダスBC418年頃–BC362年 · テーバイ同盟軍を率い、戦場で致命傷を負う本文
マンティネイアの戦いは、紀元前362年、ペロポネソス半島中部のアルカディアで、テーバイを中心とする同盟軍とスパルタ・アテナイ・マンティネイアの連合軍とが戦った会戦である。どちらの陣営がギリシアの覇権を握るかを決めるはずの戦いだったが、勝った側の将が戦場で倒れたことで、結果はどちらにとっても勝利と呼べないものになった。
ペロポネソス戦争でアテナイを破ったあと、ギリシアの覇者はスパルタだった。テーバイはスパルタの守備隊に城塞を占領されたが、紀元前379年から378年にかけてこれを追い出し、ボイオティアの諸都市をまとめ直した。その中心にいたのがエパメイノンダスである。紀元前371年のレウクトラの戦いで、彼は左翼に精兵を厚く重ねてスパルタの右翼を打ち破り、スパルタ王クレオンブロトスを戦死させた。スパルタの不敗の名はこのとき崩れた。

エパメイノンダスはその後、スパルタの足元を崩しにかかった。ペロポネソス中部の都市を束ねるアルカディア連邦を後押しし、紀元前370年の冬にはスパルタの本拠ラコニアへ攻め込んだ。さらに、スパルタに長く隷属させられてきたメッセニアの人々のためにメッセネの町を再建した。スパルタは自らの暮らしを支えてきた土地と労働力を失い、周りを敵に囲まれた。
しかし反スパルタの陣営も一枚岩ではなかった。紀元前364年、アルカディア人はエリスからオリュンピアの聖域を奪って競技祭を開き、聖域の財宝を連邦の兵の給料に充てた。これに反対したマンティネイアは連邦の主流と対立し、かつての敵スパルタと、テーバイの強大化を嫌うアテナイに助けを求めた。一方、アルカディアの古い有力都市テゲアはテーバイに救援を求めた。こうしてエパメイノンダスは紀元前362年、4度目のペロポネソス遠征に出た。

彼はまず、スパルタ軍が出払っているすきを突いてスパルタの町を急襲した。だが知らせを受けた王アゲシラオス2世が急いで戻り、町を守り抜いた。テゲアに退いたエパメイノンダスは騎兵をマンティネイアの郊外へ送ったが、到着したばかりのアテナイ騎兵に撃退された。この小競り合いでは、歴史家クセノフォンの息子グリュロスが戦死している。遠征の不首尾が続いたことで、彼は決戦での勝利にすべてを懸けたと、クセノフォンは書いている。
両軍は、二つの山に挟まれたマンティネイアの平地で向かい合った。エパメイノンダスは軍を西の山沿いに動かし、その日は戦わずに野営するように見せかけた。敵が武装を解き始めたころ、彼はひそかに隊列を組み替え、左翼にボイオティアの精兵を深く重ねた。クセノフォンはこの左翼を、衝角を突き出した三段櫂船のようだったと形容している。騎兵には足の速い軽装歩兵を混ぜて敵の騎兵を追い払い、厚い左翼は右翼より速く進んで、敵の右翼にいたマンティネイア勢とスパルタ勢に突き当たった。レウクトラで成功した、片翼に力を集める戦い方の再現だった。
敵の右翼は崩れた。だが最前線で指揮していたエパメイノンダスは、敵の槍を受けて致命傷を負った。誰が討ったかについては、スパルタ人のアンティクラテスとする説、グリュロスとする説などがあり、定まらない。彼が後を託すつもりだった将ダイファントスとイオライダスもすでに戦死していた。それを聞いた彼は、テーバイには将がいないのだから講和せよと言い残したと伝えられる。将を失ったテーバイ軍は逃げる敵を追えず、右翼ではアテナイ勢が踏みとどまって、追撃に出た軽装歩兵を討ち取った。
戦いの後、両軍はともに勝利を主張し、ギリシアの諸都市のあいだで和平が結ばれた。しかしスパルタはメッセネの独立を認めず、和平に加わらなかったとされる。クセノフォンは著書『ギリシア史』を、この戦いの後のギリシアは前よりも混乱と無秩序が増した、という言葉で締めくくっている。テーバイの覇権はエパメイノンダス一人の才覚に支えられていたため、彼の死とともに勢いを失った。スパルタもまた、精鋭を失った痛手から立ち直れなかった。
覇権を争った都市がそろって力を失ったことは、北の新興国マケドニアに道を開いた。少年時代に人質としてテーバイで暮らし、エパメイノンダスの軍を間近に見たとされるフィリッポス2世は、やがて重装歩兵の密集隊と騎兵を組み合わせた軍を作り上げる。紀元前338年のカイロネイアの戦いで、ギリシアの諸都市はそのマケドニアに屈することになる。