できごと

ブレンハイムの戦い

Battle of Blenheim
AD1704年8月13日
重要度 3
ロシア帝国スペイン帝国ポルトガル帝国オスマン帝国サファヴィー朝ネーデルラント連邦共和国大英帝国スウェーデン帝国モロッコポーランド・リトアニア共和国ヒヴァ・ハン国ポーランド・リトアニア共和国デンマーク=ノルウェー神聖ローマ帝国フランス王国スペインオーストリア帝国ノガイ・オルダEngland and IrelandFinnmarkScottalndヴェネツィア共和国NaplesルクセンブルクプロイセンAD1704年8月13日ブレンハイム(ブリントハイム)
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているAD1704年8月13日の版図を描いています(25勢力)。

概要

スペイン継承戦争で、マールバラ公とオイゲン公の連合軍がドナウ河畔でフランス・バイエルン軍を破った決戦。ウィーンが救われた。

場所

ブレンハイム(ブリントハイム)
48.63°N 10.62°E · ドイツ・バイエルン州

関わった人(3)

ルイ14世AD1638年9月5日–AD1715年9月1日 · ウィーンを突いて皇帝を戦争から降ろそうとしたマールバラ公ジョン・チャーチル1650年–AD1722年6月27日 · 英蘭連合軍の総司令官プリンツ・オイゲンAD1663年10月18日–AD1736年4月21日 · 帝国軍を率いて右翼を受け持った

本文

1700年、スペイン王カルロス2世が子の無いまま死に、遺言でルイ14世の孫フィリップを跡継ぎに指名した。フェリペ5世としてスペイン王になった彼を通じて、フランスとスペインが一つの王家で結ばれることを恐れたイングランド、ネーデルラント連邦共和国、神聖ローマ皇帝(オーストリアのハプスブルク家)は大同盟を組み、1701年に戦争が始まった。スペイン継承戦争である。

1704年、戦いはフランスに有利に進んでいた。バイエルン選帝侯マクシミリアン2世エマヌエルがフランス側に付き、ドナウ川沿いから皇帝の都ウィーンを脅かしていた。東ではハンガリーでラーコーツィの反乱が起き、北イタリアにはヴァンドーム公の大軍がいた。ウィーンが落ちれば皇帝は戦争から降り、同盟は崩れる。ルイ14世の狙いはそこにあった。

ルイ14世の肖像
ルイ14世Wikimedia Commons Hyacinthe Rigaud · Public domain

これを救いに動いたのが、イングランド軍とオランダ軍を率いるマールバラ公ジョン・チャーチルである。彼は計画を味方のオランダ議会にすら隠し、モーゼル川へ向かうと見せかけて、5月19日にケルンの北西ベドブルクを発った。コブレンツでモーゼル川へ曲がらずにライン川を遡り、フィリップスブルクでは橋を架けてアルザスを攻めると思わせた。行き先がドナウだとフランス側が確かめられたのは、軍がライン川を離れた6月上旬だった。約5週間で400キロを進み、行く先々で糧食や長靴まで手配させていたので、兵はほとんど疲れずに着いたという。7月2日にはドナウ川の渡河点を守るシェレンベルクの高地を強襲して奪い、ドナウヴェルトを手に入れた。

フランスはタラール元帥に黒い森を越えさせ、バイエルン軍とマルサン元帥の軍に合わせた。連合軍の側には、帝国軍を率いるサヴォイア公子オイゲンが8月11日に合流した。フランス・バイエルン軍は小川ネーベルの背後に陣を敷いた。右端はドナウ川に臨むブリントハイム村(英語でブレンハイム)、中央を挟んで左にオーバーグラウハイム、ルッツィンゲンと続く。兵力はフランス・バイエルン軍が約5万6000、大砲90門、連合軍が約5万2000、大砲66門。タラールは連合軍が北西へ退くものと思い込み、攻めてくるとは考えていなかった。

8月13日の早朝、連合軍は前進を始めた。左翼ではカッツ卿の英軍がブリントハイム村を攻め、二度押し返された。だがこの攻撃に慌てた村の指揮官クレランボーが、タラールに諮らずに予備の大隊まで村へ入れてしまった。狭い村に兵がひしめき、撃つことすらできなくなったと、居合わせた将校は書いている。マールバラはそれを見て三度目の攻撃をやめさせ、村を囲むだけにした。5000に満たない兵で、倍のフランス兵を閉じ込めた形になった。右翼ではオイゲンがルッツィンゲンの前で三度押し返されながらも、バイエルン軍とマルサンの軍をその場に縫い止めた。

夕方、マールバラは中央でネーベル川を渡らせた騎兵と歩兵で、兵を村に取られて薄くなったフランス軍の中央を突いた。タラールの騎兵は崩れ、ヘーヒシュテットの方へ逃げた兵の多くがドナウ川へ追い落とされ、溺れた騎兵は3000を超えたとされる。タラール自身も捕らえられた。村に閉じ込められた約1万の精鋭歩兵は、夜9時ごろまでに武器を捨てた。マールバラは古い酒場の勘定書きの裏に、妻サラへ「女王陛下に、陛下の軍が輝かしい勝利を得たとお伝えしてほしい」と走り書きした。

フランス側の死傷と捕虜は2万7000を超えた。オイゲンは「少なくとも4度突撃しなかった部隊は一つも無い」と書いており、連合軍の損害も大きかった。それでもウィーンは救われ、同盟は崩れずに済んだ。ミュンヘンやウルムなどバイエルンの町は次々に降り、11月のイルベルスハイム条約でバイエルンはオーストリアの軍政の下に置かれた。選帝侯は国と家族を残してスペイン領ネーデルラントへ去り、タラールはイングランドへ送られて1711年までノッティンガムに留め置かれた。それまで負けを知らないと思われていたフランス軍の評判は、この一日で崩れた。

ただし戦争はこれで終わらず、ラミイの戦い、アウデナールデの戦い、マルプラケの戦いと続いて、1713年のユトレヒト条約でようやく区切りがついた。アン女王は勝利の褒美にマールバラにウッドストックの御料地を与え、そこに建てられた館はブレナム宮殿と名付けられた。1874年にこの宮殿で生まれたのが、マールバラの子孫チャーチルである。彼はのちに先祖の伝記を書き、ドナウへの行軍を、地図の上を這い進む緋色の毛虫にたとえた。

動画(1)

太陽王を倒せ!魔術みたいな一大作戦【ブレンハイムの戦い】世界の戦術戦略を解説非株式会社いつかやるドナウへの秘密の大行軍から決戦までを戦術で追う

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