人物

ネコ2世

Necho II
? – BC595年
エジプト第26王朝重要度 3

概要

サイス朝。ナイルと紅海の運河を掘り始めて12万人が死んだと伝える。メギドでユダの王ヨシヤを殺し、カルケミシュでネブカドネザルに負けた。フェニキア人にアフリカを回らせた。ギリシアの傭兵と三段櫂船。

関わったできごと(1)

フェニキア人のアフリカ周航(伝承)BC600年頃 · 命じた

本文

ネコ2世は、エジプト第26王朝の2代目のファラオである。エジプト語の名はネカウで、「ネコ」はギリシア語と聖書での呼び方だ。この王朝はナイル・デルタの西の町サイスを都にしたので、サイス朝とも呼ばれる。在位は紀元前610年から紀元前595年までの15年ほどで、旧約聖書に名前で登場する数少ないファラオの一人である。

ひざまずくネコ2世の像(ブルックリン美術館)
ひざまずくネコ2世の像(ブルックリン美術館)Wikimedia Commons Keith Schengili-Roberts · CC BY 2.5

父のプサメティコス1世は、アッシリアの後ろ盾で王になりながら、やがてその支配を離れ、ギリシアやカリアの傭兵を使ってばらばらだったエジプトを一つにまとめた(プサメティコス1世のエジプト再統一)。治世は54年に及ぶ。ネコが王位を継いだ紀元前610年、西アジアの情勢は大きく変わりつつあった。かつてエジプトを征服したアッシリアは、新バビロニアとメディアに攻められ、紀元前612年には都ニネヴェを落とされていた(ニネヴェ陥落)。エジプトにとって、東で新しい大国が育つのは、弱ったアッシリアが残るより危うい。ネコはアッシリアの残った勢力を助ける道を選んだ。

紀元前609年、ネコは軍を率いてパレスティナの海沿いを北へ進み、ユーフラテス川へ向かった。その途中のメギドで、ユダ王国の王ヨシヤが道をふさいだ。旧約聖書の『歴代誌』は、ネコが使者を送って「あなたと争うつもりはない。神が私を急がせている」と伝えたのに、ヨシヤは変装して戦いに出て、矢に当たって死んだと書く。『列王記』の記述はもっと短く、ネコがメギドでヨシヤを殺したとだけある。どちらの書き方が実際に近いのかは分からない。ネコはユーフラテス川でアッシリア軍とともにハランを取り戻そうとしたが、成功しなかった。

メギドの戦いの舞台テル・メギド遺跡の空撮
メギドの戦いの舞台テル・メギド遺跡の空撮Wikimedia Commons Created by משתמש:אסף.צ uploaded Daniel.baranek · Public domain

引き返す途中、ネコはユダの王位にも手を入れた。民が立てたヨシヤの子ヨアハズを3か月で退けてエジプトへ連れ去り、その兄エルヤキムをヨヤキムと改名させて王にし、銀100タラントと金1タラントの貢を課した。こうしてシリアとパレスティナは数年のあいだエジプトの勢力圏になった。

だが、紀元前605年、ユーフラテス川の渡し場カルケミシュで、エジプト軍はバビロニアの皇太子ネブカドネザル2世に大敗した。バビロニアの年代記は、逃げたエジプト兵も追いつかれて一人も帰らなかったと誇る。『列王記』は「エジプトの王は二度と自分の国から出て来なかった。バビロンの王が、エジプトの川からユーフラテス川までの、エジプトの王のものをすべて取ったからである」と書く。ただしネコは守りでは粘った。紀元前601年ごろ、エジプトの国境に攻め寄せたネブカドネザルの軍を退け、両軍とも大きな損害を出したことが、同じバビロニアの年代記に記されている。

カルケミシュの戦い(『諸国民の物語』1900年の挿絵)
カルケミシュの戦い(『諸国民の物語』1900年の挿絵)Wikimedia Commons Patrick Gray · CC BY 2.0

ネコの名を後世に残したのは、戦争よりも海と運河の事業である。ヘロドトスによれば、ネコはナイル川の東の支流から紅海へ通じる運河を掘り始め、その工事で12万人が死んだ。そこへ「お前は異国人のために働いている」という神託が下り、工事をやめたという。運河はのちにペルシアのダレイオス1世が完成させ、「エジプトからペルシアへ船が行く」と刻んだ碑を岸に立てた。地中海と紅海を結ぶ水路の構想は、1869年のスエズ運河の開通より2400年以上前にさかのぼることになる。ヘロドトスはまた、ネコが地中海と紅海の両方に三段櫂船の艦隊を造らせたとも書いている。ギリシアの造船の技術を取り入れたものとみられる。

さらにヘロドトスは、ネコがフェニキア人の船乗りを紅海から南へ送り出し、アフリカ大陸を一周させたと伝える(フェニキア人のアフリカ周航(伝承))。彼らは秋になると上陸して麦をまき、刈り取ってはまた進み、3年目にジブラルタル海峡を通ってエジプトへ戻った。船乗りたちは「西へ回っているとき、太陽が右手(北)に見えた」と報告した。ヘロドトスはこれを信じなかったが、赤道より南を西へ進めば実際にそう見えるので、かえって航海が本当だった証拠だと考える人も多い。ただ、ほかに裏づける記録はなく、実際に行われたかどうかは分かっていない。

プトレマイオスの『地理学』に基づく世界図(15世紀の再構成)
プトレマイオスの『地理学』に基づく世界図(15世紀の再構成)Wikimedia Commons Credited to Francesco di Antonio del Chierico · Public domain

ネコは紀元前595年に死に、子のプサメティコス2世が後を継いだ。サイスの町はほとんど残っておらず、第26王朝の王たちの墓も神殿の境内にあったとされるが見つかっていない。聖書の世界では、彼は「ユダの最良の王」ヨシヤを死なせたファラオとして記憶された。ヨシヤが進めたヨシヤの改革はその死で勢いを失い、ユダは大国のあいだで揺れ続けて、紀元前586年にエルサレムはネブカドネザルに滅ぼされる(バビロン捕囚)。メギドでの小さな衝突は、ユダの歴史を変えた出来事として読み継がれてきた。

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