レディ・ビー・グッド号の遭難
概要
1943年、ナポリ爆撃から帰る途中で消えた米軍のB-24。15年後、海から700km以上離れたリビアの砂漠で見つかった。
場所
26.71°N 24.02°E · リビア・クフラ県
本文
1943年4月4日、北アフリカのリビアから飛び立ったアメリカ陸軍航空軍のB-24D爆撃機「レディ・ビー・グッド」は、イタリアのナポリを爆撃する任務に出たまま帰らなかった。9人の乗員とともに地中海に落ちたと考えられ、行方は15年のあいだ謎のままだった。機体が見つかったのは、海から700キロ以上も内陸に入ったサハラ砂漠の真ん中である。
第二次世界大戦のこの時期、北アフリカの戦いは終わりに近づいていた。前年秋のエル・アラメインの戦いのあと、連合軍はリビアを西へ押し進み、ベンガジ周辺の飛行場から地中海の向こうのイタリアを爆撃するようになっていた。レディ・ビー・グッドは3月25日に第376爆撃航空群の第514爆撃飛行隊に配属されたばかりの新しい機体で、名はジョージ・ガーシュウィンの同名の歌にちなむ。乗員もまた新しく、リビアに着いたのは3月18日だった。4月4日の出撃が、この9人にとって初めての実戦である。

この日は25機のB-24が2つの波に分かれてナポリ港を狙った。レディ・ビー・グッドは第2波の1機として、午後2時15分にベンガジ近郊のソルーク飛行場を離陸した。ところが砂嵐のために8機が引き返し、ナポリまで進んだのは4機だけになった。午後7時50分ごろ目標の上空に着いたが視界が悪く、主目標は爆撃できなかった。帰り道、レディ・ビー・グッドは単独で飛んでいた。
日付が変わった午前0時12分、機長のウィリアム・ハットン中尉は、自動方向探知機が働かないと無線で伝え、基地の方位を尋ねた。返答は届いたものの、機はそのまま基地の上を通り過ぎた。地上では機を呼び寄せるために照明弾が上げられていたが、乗員は気づかなかったとみられる。機は南へ飛び続け、夜の砂漠の上を2時間ほど進んだ。午前2時ごろ燃料が尽きかけ、乗員はパラシュートで降下した。無人になった機体はさらに26キロほど飛び、カランショ砂海に胴体着陸した。
基地では、機は地中海に落ちたものと考えた。捜索は行われたが何も見つからず、9人は行方不明のまま戦争は終わった。
1958年、石油を探していたイギリスの会社の調査隊が、リビア南東部の砂漠で機体を見つけた。翌1959年には地上から確かめられ、レディ・ビー・グッドであることが分かった。機体は2つに折れていたが保存状態は驚くほどよく、機関銃も無線機も使える状態で、水や食料も残っていた。魔法瓶の茶が飲めたという話も伝わる。だが機内にも周りにも、人の姿もパラシュートも無かった。
1960年、アメリカ軍の捜索などで乗員の遺体が次々に見つかった。8人は無事に地上へ降り、拳銃や信号弾で互いを見つけて合流していた。爆撃手1人だけは傘が十分に開かず、着地のときに死んだとみられる。副操縦士ロバート・トナーのポケットにあった日記から、8人の歩みが分かった。彼らは自分たちが海岸の近くにいると信じて北へ歩いた。1つの水筒の水を分け合い、捜す人への目印に靴やパラシュートの切れ端を残しながら、8日間歩き続けた。130キロほど進んだところで5人が力尽き、3人がさらに北へ向かった。そのうちの1人は墜落地点から300キロ以上離れた場所で見つかったが、そこからソルークの基地まではなお160キロあった。残る1人の遺体は、いまも公式には見つかっていない。
なぜ基地を通り過ぎたのか。陸軍の報告は、無線方位の読み違いを挙げている。当時の方向探知の仕組みは、電波が前から来るのか後ろから来るのかを区別できなかった。航法士は、基地を越えて南へ向かっている機の方位を、まだ海の上で基地へ近づいている方位と読み違えた可能性が高い。暗く平らな砂漠は、夜の空からは海と見分けがつかなかったとも考えられている。もし南へ同じ距離を歩いていればオアシスに着けた可能性があり、26キロ先の機体にたどり着けば水と無線があった。
機体の部品はのちに持ち去られたり別の機に使われたりし、1994年に残骸はリビアの軍の基地へ運ばれた。プロペラなどはアメリカ空軍国立博物館や乗員の故郷に残る。新しい乗員、働かない計器、目印の無い夜の砂漠が重なったこの遭難は、航法の怖さを伝える出来事として語り継がれている。