できごと

武蔵松山城

Matsuyama Castle (Musashi)
15世紀後半 – 1601年
期間を持つできごと重要度 2
シベリアの諸集団明チベットパガン朝アユタヤ朝日本朝鮮王朝スコータイ朝大越大越アイヌモシリ15世紀後半武蔵松山城跡
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っている15世紀後半の版図を描いています(11勢力)。

概要

武蔵国の中央を押さえた丘の城。上杉・北条・武田が奪い合い、主要部の半分あまりを空堀が占める。

場所

武蔵松山城跡
36.04°N 139.42°E · 埼玉県比企郡吉見町

関わった人(4)

上杉謙信AD1530年2月18日–AD1578年4月19日 · 1561年に城を奪う北条氏康AD1515年–AD1571年 · 武田と組んで奪い返す武田信玄AD1521年12月1日–AD1573年5月13日 · 1563年の包囲に加わる前田利家AD1539年–AD1599年4月27日 · 1590年に城を囲む

本文

武蔵松山城は、いまの埼玉県比企郡吉見町にあった城である。丘陵のふもとを市野川が巡り、その川を天然の堀とした平山城で、川の対岸の松山本郷(いまの東松山市)に城下町が開けた。武州松山城とも呼ばれる。武蔵国のほぼ真ん中を押さえる位置にあったため、室町時代の終わりから戦国時代にかけて、関東の諸勢力がこの城を繰り返し奪い合った。

築城については、応永6年(1399年)に上田友直が本格的に築いたとされる。ほかに小野篁や源経基、新田義貞が築いたという伝説も残るが、どれも裏づけは無い。2003年と2004年の発掘調査では、出土した遺物の多くが15世紀後半から16世紀中頃のもので、北条氏の時代にあたる16世紀後半のものは少なかった。少なくとも一度の火災と、その後に盛り土をして造り替えた跡も見つかったが、その年代はまだ分かっていない。

上杉神社所蔵、上杉謙信の肖像
上杉謙信Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

城を築いたと考えられる上田氏は、扇谷上杉氏に仕える武将だった。15世紀後半の関東では古河公方と上杉氏の争い(享徳の乱)が続き、続いて山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った。松山城は扇谷上杉氏の前線の拠点として、東の古河公方と北の山内上杉氏ににらみをきかせた。やがて相模から後北条氏が勢力を伸ばしてくると、上杉の両家と古河公方は手を結び、松山城は南から迫る北条への備えに役目を変えた。

天文6年(1537年)、北条氏綱が河越城を落とし、その勢いのまま松山城にも攻め寄せた。城主の難波田憲重らはこれを退けた。このとき城の内と外の武将が和歌を詠み交わしたという話が伝わり、「松山城風流合戦」と呼ばれる。ただし軍記に見える話で、どこまで本当かは分からない。河越を失った扇谷上杉朝定は松山城に移り、家の威信をかけて城を大きく広げた。

北条氏康の肖像
北条氏康Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

天文15年(1546年)の河越夜戦で朝定と難波田憲重が討ち死にし、扇谷上杉氏は滅んだ。松山城は北条氏康の手に渡る。上杉方の太田資正は難波田の婿で、すぐに城を取り返し、縁戚の上田朝直を城代に置いた。ところが朝直が北条方に寝返ったため、城はふたたび北条のものになった。資正はその後も、松山城の城主は本来自分だという立場を取り続けたとされる。

永禄4年(1561年)、関東に攻め込んだ上杉謙信が松山城を奪い、謙信方の城とした。北条氏康は甲斐の武田信玄と組んで取り返しにかかり、永禄5年の暮れから両軍で城を囲んだ。翌永禄6年(1563年)の初め、謙信は救援に向かったが間に合わず、城は開け渡された。このとき武田方が金山の掘り手を動員して城の下に坑道を掘らせたという話が伝わるが、地元ではほとんど知られておらず、確かめられてもいない。松山城を巡るこの争いは房総にも飛び火し、翌年の第二次国府台合戦へとつながった。

武田晴信(信玄)の肖像
武田信玄Wikimedia Commons Unknown · Public domain

これ以後、松山城は北条方の城であり続けた。しばらく北条氏が直接押さえた後、元亀年間(1570年代初め)からは北条の家臣団に組み込まれた上田氏の居城となり、上田氏は比企地方一帯を「松山領」として治めた。籠城のさなか、水が尽きたのを敵に悟られないよう、米で馬を洗って遠目に水があるように見せたという「白米城」の伝説もこの城に残る。各地の城に同じ型の話があり、これも史実とは言いにくい。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻め(秀吉の天下統一)が始まる。城主の上田憲定は小田原城に籠もり、松山城には山田直安以下約2300人が残った。城は前田利家と上杉景勝を主力とする大軍に囲まれて落ちた。豊臣方の陣容を描いた布陣図には、真田昌幸や直江兼続の名も見える。

前田利家の肖像
前田利家Wikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

徳川家康が関東に入ると、松平家広が松山城に入って松山藩を開いた。慶長6年(1601年)、跡を継いだ松平忠頼が浜松へ移ると城は空になり、そのまま廃された。家広の時代には、城下町と城を隔てていた市野川に初めて橋が架けられたとされる。そこは本来、城の守りの要となる方角で、争奪戦の続いた北条の時代まで橋は無かった。

城跡の見どころは空堀である。本丸から東へ延びる尾根に沿って二の丸、春日丸、三の丸が段々に並び、その周りを帯曲輪や腰曲輪が囲む。城の主要部の面積の半分あまりを空堀が占め、曲輪どうしは低い土橋だけで結ばれている。この堀の多さと川に囲まれた地形から、不落の城とも呼ばれた。軍勢を置くための広い曲輪があった城の中央部は、1970年に関越自動車道の工事の土取りで失われた。

1925年に県の史跡となり、2008年には菅谷館跡、杉山城跡(杉山城)、小倉城跡とともに「比企城館跡群」として国の史跡に指定された。すぐ隣には、同じ凝灰岩の丘に古墳時代の横穴墓が並ぶ吉見百穴がある。

動画(1)

異常すぎる堀だらけの城【武蔵・松山城】を現地とアニメで解説非株式会社いつかやる堀だらけの難攻不落の城・武蔵松山城を現地で解説する回

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