できごと

『プリンキピア』

Principia Mathematica
AD1687年
重要度 5
『プリンキピア』に関わる図版:Russell, Whitehead - Principia Mathematica to 56
Russell, Whitehead - Principia Mathematica to 56 Wikimedia Commons Nick Dillinger · Public domain

概要

天体の運行と落ちる林檎を同じ式で説明した。世界が法則で書けると示す。

場所

ロンドン
51.51°N -0.13°E · イギリス・イングランド

関わった人(2)

アイザック・ニュートンAD1643年–AD1727年 · 著者エドモンド・ハレーAD1656年11月8日–AD1742年1月25日 · 出版費を出した

本文

1684年8月、天文学者のエドモンド・ハレーがケンブリッジにアイザック・ニュートンを訪ねた。ロンドンでは、建築家のレンや実験家のフックらと、惑星を太陽に引き寄せる力が距離の二乗に反比例するなら、惑星はどんな軌道を描くのかという問題を論じていた。誰も証明できなかった。ハレーがその問いを投げかけると、ニュートンは即座に、楕円だと答えた。計算したことがあるという。

ニュートンはその計算を見つけられず、後で送ると約束した。11月、ハレーのもとに9ページの小さな論文が届いた。ハレーはその価値を見抜き、本にまとめるよう勧めた。ニュートンは1年半あまり、ほとんどこの仕事に没頭した。食事を忘れることもあったと周囲の者は伝えている。

その前提には、半世紀以上の積み重ねがあった。ヨハネス・ケプラーは、惑星が太陽を一つの焦点とする楕円の上を動くことなどを観測から導いていた。ケプラーの法則は、なぜそうなるのかまでは説明していなかった。ガリレオ・ガリレイは、地上で物が落ちるときの法則を調べていた。ニュートンはこれらを、一つの力学の体系にまとめようとした。

ケプラーの法則に関わる図版:Kepler laws diagram
ケプラーの法則Wikimedia Commons Hankwang · CC BY 2.5

ニュートン自身も、この問題を20年近く前から考えていた。1665年から翌年にかけて、ペストの流行でケンブリッジ大学が閉じられると、故郷のウールスソープに戻り、微積分の考え、光と色の研究、そして重力の着想を得たとされる。庭で林檎が落ちるのを見て、同じ力が月まで届くのではないかと考えたという話は、晩年のニュートンが知人に語ったものとして記録されている。ただし、そのとき計算は月の動きとぴったりとは合わず、ニュートンはこの問題をしばらく脇に置いていた。

本の正式な題は『自然哲学の数学的諸原理』で、ラテン語で書かれ、3巻からなる。第1巻の初めに、のちに運動の三法則と呼ばれる原理が置かれた。力を受けない物体は動き続けるか止まり続ける。運動の変化は加えられた力に比例する。作用には等しい反作用がある。第1巻はこれをもとに、力を受けた物体がどう動くかを論じ、第2巻は水や空気のような抵抗のある中での運動を扱った。

『プリンキピア・マテマティカ』第1巻、「1+1=2」を導く命題の箇所
『プリンキピア・マテマティカ』第1巻、「1+1=2」を導く命題の箇所Wikimedia Commons Whitehead and Russell · Public domain

第3巻「世界の体系」で、ニュートンは同じ原理を宇宙に当てはめた。月を地球に引きつけている力と、林檎を地面に落とす力は同じものだ。月も落ち続けている。ただ横に速く動いているので、落ちる分だけ地球の表面が丸く遠ざかり、いつまでも地面に届かない。この力は、距離の二乗に反比例して弱まりながら、すべての物体のあいだに働く。それで惑星の軌道も、木星の衛星の動きも、潮の満ち引きも、彗星の通り道も説明できた。

天の動きと地上の動きは別の原理に従うという考えは、アリストテレス以来、2000年近く続いてきた。それが、一冊の本で消えた。同じ数式が、宇宙の果てまで通用することが示された。

アイザック・ニュートンの肖像(1689年)
アイザック・ニュートンWikimedia Commons Godfrey Kneller · Public domain

出版までの道のりは平坦ではなかった。1660年に生まれた王立協会が刊行を引き受けたが、資金が足りなかった。出版費用は結局ハレーが自分で出し、原稿の校正も引き受けた。そのうえフックが、逆二乗の法則は自分が先に考えたと主張した。ニュートンは激怒し、第3巻を出さないとまで言い出した。ハレーがなだめ、本は1687年の夏に刊行された。

ニュートンはこの本を、自分で発展させた微積分の手法ではなく、古典的な幾何学の証明で書いた。当時の読者に受け入れられやすくするためだったとされる。それでも内容は難解で、読みこなせた人はわずかだった。わざと難しく書いた、数学を少しかじっただけの者に絡まれないように、と本人が語ったとも伝えられる。

エドモンド・ハレーの肖像
エドモンド・ハレーWikimedia Commons Thomas Murray · Public domain

批判もあった。大陸のゴットフリート・ライプニッツらは、何もない空間を越えて離れた物体どうしに力が働くという考えを、神秘的な力を持ち込むものだと批判した。ニュートンは第2版で、重力が何から生じるかについて「私は仮説を作らない」と書いた。力がどう働くかを数式で示せれば十分だという立場である。

その後、プリンキピアの力学は予測で力を示していった。ハレーはこの理論を使い、ある彗星が約76年ごとに戻ってくると予言した。ハレーの彗星の予言のとおり、彗星はハレーの死後の1758年末に姿を見せた。19世紀には、天王星の動きのずれから未知の惑星の位置が計算され、海王星が見つかった。

ニュートンの力学が修正を迫られたのは、20世紀の一般相対性理論によってだった。

プリンキピアは、ニュートン自身の人生も変えた。ケンブリッジの一教授だったニュートンは、ヨーロッパでもっとも名高い学者になり、のちにロンドンの造幣局の長官となり、王立協会の会長も長く務めた。大陸では、フランスのヴォルテールがその考えを広め、数学者シャトレ侯爵夫人がプリンキピアをフランス語に訳した。この訳は長いあいだ、フランス語で読める唯一の全訳だった。それでも、人工衛星の軌道計算から建物の設計まで、私たちの身の回りの多くは今もプリンキピアの法則で計算されている。世界が数学の法則で書けるという考えを、これほど力強く示した本はほかに無い。

出典(3)

ユヴァル・ノア・ハラリ(柴田裕之 訳) 『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』第14章 無知の発見と近代科学の成立
ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第III部 西欧の優勢(1500〜1850年)
ジョゼフ・ニーダム(東畑精一、藪内清 監修) 『中国の科学と文明』同上

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