忍城の戦い
概要
1590年、小田原征伐のさなかに石田三成らが武蔵の忍城を囲み水攻めにしたが、城は小田原の開城まで落ちなかった。
場所
36.14°N 139.45°E · 日本・埼玉県行田市
関わった人(2)
石田三成AD1560年–AD1600年11月6日(慶長5年10月1日) · 攻城軍を率い、水攻めの堤を築いた豊臣秀吉AD1537年–AD1598年 · 小田原征伐を命じ、水攻めを指示した本文
忍城の戦いは、天正18年(1590年)、豊臣秀吉が関東の後北条氏を攻めた小田原征伐のなかで、武蔵国の忍城(いまの埼玉県行田市)をめぐって起きた攻防である。豊臣方は城のまわりに長い堤を築いて水攻めにしたが、城は持ちこたえ、本城の小田原が開城したあとまで落ちなかった。備中高松城、紀伊の太田城と並んで、日本三大水攻めの一つに数えられる。
忍城は、北武蔵の国衆・成田氏の居城だった。15世紀の終わりごろに成田氏が築いたとされ、利根川に近い低い土地にあって、元荒川や星川、周りに広がる沼や湿地を天然の堀にしていた。関東七名城の一つに数えられる堅い城である。成田氏ははじめ扇谷上杉氏に従ったが、1546年の河越城の戦いで上杉方が敗れると北条方につき、のちに上杉謙信が関東へ攻め込むと一時はそちらへ寝返るなど、大勢力のあいだで揺れながら家を保ってきた。

天下統一を進める秀吉は、北条氏政・氏直父子に上洛を求めたが、北条方は応じなかった。1590年、秀吉は大軍を発して小田原城を囲んだ(秀吉の天下統一の総仕上げである)。成田氏の当主・成田氏長は兵を率いて小田原城に籠もったため、忍城には城代の成田泰季とその子・長親、家臣の正木丹波らが残った。泰季は籠城の始まりのころに急死したとされ、長親が城の総大将になった。氏長の娘・甲斐姫も城にいた。英語版の記事などは守り手を侍600人余りと近在の百姓ら2000人ほどとしている。
秀吉は小田原を囲む一方で、関東各地の北条方の支城を一つずつ落としていった。館林城を落とした石田三成は、大谷吉継・長束正家らとともに6月に忍城へ向かった。攻め手は2万を超えたといわれる。はじめは北国勢の前田利家・上杉景勝らも加わって攻めたが、沼地に囲まれた城は近づくことさえ難しく、攻めあぐねた。

ここで秀吉が命じたのが水攻めである。かつて秀吉自身が備中高松城を水に沈めて落としたやり方だった。軍記物は、三成が丸墓山古墳に登って地形を見渡し、高松城にならって水攻めを思いついたと描く。しかし当時の書状を見ると、三成はむしろ水攻めに批判的で、もっと積極的に攻めるべきだと書き送っており、それに対して秀吉が水攻めの注意点を細かく指示している。水攻めを主導したのは秀吉で、三成はそれを実行した立場だったと考えられている。
堤は城の南側を半円形に囲むように築かれ、全長は28キロメートルに及んだと伝えられる。近在の農民を昼夜を問わず集め、昼は米一升と永楽銭60文、夜は米一升と永楽銭100文を与えたので、わずか数日で堤ができたという。いまも行田市に「石田堤」として一部が残る。ところが、水を引き入れても本丸は沈まず、まるで水の上に浮いているように見えた。忍城が「忍の浮き城」と呼ばれるのはこのためである。さらに、堤の一部が切れて水があふれ、攻め手のほうに多くの死者が出たと伝えられる。水が引いたあとの城のまわりはぬかるみになり、かえって攻めにくくなった。
7月に入ると浅野長政や上杉景勝・前田利家らがふたたび攻め手に加わったが、それでも城は落ちなかった。7月5日、小田原城が降伏して北条氏は滅んだ。北条方の支城はほとんど落ちており、残っていたのは忍城だけだった。小田原にいた成田氏長が秀吉の求めに応じて城兵に開城をすすめ、忍城は7月16日にようやく城を明け渡した。
戦いのあと、成田氏長は所領を失い、会津の蒲生氏郷に預けられたのち、下野の烏山に領地を与えられた。長親は氏長と不和になって家を去り、出家して晩年を尾張で過ごしたとされる。甲斐姫は秀吉の側室になったと伝えられるが、その後の詳しい消息は分からない。三成はこの城を落とせなかったことで「戦下手」という評判を背負うことになった。ただ、水攻めは秀吉の指示によるもので、失敗の責めをすべて三成に負わせるのは公平ではないという見方が強い。
忍城の戦いは、江戸時代の軍記物で三成の堤が強調され、物語として形を整えていった。現代では和田竜の小説『のぼうの城』と、それを原作とする2012年の映画で広く知られるようになった。小説は長親を「でくのぼう」の「のぼう様」と呼ばれる人物として描くが、これは創作の部分が大きい。城は明治になって建物がすべて壊されたが、1988年に三階櫓が再建され、いまは行田市郷土博物館とともに城跡の公園になっている。