できごと

『天球の回転について』

De revolutionibus
AD1543年
重要度 5
『天球の回転について』に関わる図版:De revolutionibus 1543
De revolutionibus 1543 Wikimedia Commons derivative work of Johannes Petreius 1543 edition of File:Nicolai_Copernici_torinensis_De_revolutionibus_orbium_coelesti · Public domain

概要

地球が動くと説いた書が、著者の死の年に世に出た。宇宙の中心から人間が外れはじめる。

場所

ニュルンベルク
49.45°N 11.08°E · ドイツ・バイエルン州

関わった人(1)

コペルニクスAD1473年2月19日–AD1543年5月24日 · 著者

本文

1543年、ドイツの印刷の町ニュルンベルクで、ポーランドの聖職者コペルニクスの『天球の回転について』が刷り上がった。宇宙の中心にあるのは地球ではなく太陽であり、地球はほかの惑星と同じく太陽の周りを回りながら、自分も一日に一回転している、と説いた本である。著者はその年の5月に世を去った。友人の書き残したところでは、刷り上がった本が届いたのは、彼が死んだその日だったという。

コペルニクスは1473年、バルト海に近いトルンの商人の家に生まれた。10歳で父を亡くし、のちにヴァルミアの司教となるおじに育てられる。クラクフの大学で学んだあとイタリアへ渡り、ボローニャ、パドヴァ、フェラーラで教会法と医学を修めた。ボローニャでは天文学の教授の家に住み、ともに星を観測している。帰国後はバルト海沿岸の町フロムボルクの大聖堂の参事会員として、教会の領地の管理、医師としての診療、さらには通貨の改革案の執筆まで、さまざまな仕事をこなした。天文学は、そうした務めのかたわらに続けた仕事だった。

コペルニクスの手稿、第10章の天球の順序と公転周期の注記
コペルニクスの手稿、第10章の天球の順序と公転周期の注記Wikimedia Commons Nicolaus Copernicus · Public domain

当時の天文学の土台は、2世紀のアレクサンドリアの学者クラウディオス・プトレマイオスがまとめた体系だった。地球が宇宙の中心に静止し、その周りを月、太陽、惑星、恒星が回る。惑星がときどき逆向きに進むように見える動きは、大きな円の上をさらに小さな円が回る「周転円」を組み合わせて説明された。この体系は、千年以上にわたって惑星の位置をかなりよく予測してきた。だがコペルニクスには、どうしても気に入らない点があった。惑星の動きを合わせるために、プトレマイオスは、円の中心とは別の点から見て一様に回る、という工夫を持ち込んでいた。天体は一様な円運動をするはずだという古代以来の原則を、それは実質的に破っていた。

太陽を中心に置くと、多くのことがすっきりと収まった。惑星の逆行は、速く回る地球が外側の惑星を追い越すときに起きる見かけの動きとして、自然に説明できる。水星と金星がいつも太陽の近くにしか見えない理由も分かる。何より、惑星の並ぶ順番と、太陽からのおおよその距離の比が、観測から一つに決まるようになった。コペルニクスは、この整った姿にこそ真実があると考えた。1510年頃には、その考えの要点を短い手書きの論文にまとめ、親しい学者たちのあいだで回し読みさせている。

『天球の回転について』第2版の表紙(バーゼル、1566年)
『天球の回転について』第2版の表紙(バーゼル、1566年)Wikimedia Commons Nicolaus Copernicus · Public domain

それから30年以上、本格的な著作は手元に置いたまま出さなかった。躊躇の理由は、教会の弾圧よりも、学者仲間の嘲笑を恐れたためとする説がある。本人も献辞の中で、新しく馬鹿げた説だと笑われるのを恐れた、と書いている。地球が動いているなら、なぜ物は後ろへ吹き飛ばされないのか。なぜ雲や鳥は置き去りにならないのか。当時の物理学では、こうした問いに答えられなかった。地球がそれほど速く回れば、ばらばらに砕けてしまうはずだとも考えられた。

出版を後押ししたのは、一人の若者だった。1539年、ヴィッテンベルク大学の若い数学教師レティクスが、噂を聞いてはるばるフロムボルクを訪ねてきた。ルター派の大学から、カトリックの聖職者のもとへ来たのである。レティクスは2年あまり滞在して教えを受け、その説を紹介する小冊子を先に出版し、ついにコペルニクスを説き伏せて原稿を託された。印刷はニュルンベルクで始まったが、レティクスは途中で別の大学へ移ることになり、仕上げは土地のルター派の神学者オジアンダーに任された。

『天球の回転について』第3版の表紙(アムステルダム、1617年)
『天球の回転について』第3版の表紙(アムステルダム、1617年)Wikimedia Commons Nicolaus Copernicus · Public domain

出版に際して、本人の意図しない序文が付けられた。名前の無い「読者へ」という短い一文で、この本の説は計算を簡単にするための仮説であって、実際にそうだと主張するものではない、天文学者は真実を知ることはできないのだから、という趣旨だった。書いたのは、仕上げを任されたオジアンダーだった。コペルニクス本人が書いた教皇パウルス3世への献辞は、地球が動くことを堂々と論じており、序文とは食い違っている。序文の筆者が誰かは長く伏せられ、半世紀以上たってケプラーがそれを明らかにした。

その序文のおかげもあって、この本は70年あまり、禁書にならなかった。プロテスタントの側では、ルターやメランヒトンが聖書に反する説として批判したと伝えられるが、本は計算の道具として広く使われた。この本をもとに作られた新しい天体の運行表は、それまでの表より使いやすく、暦の計算に役立った。アメリカの天文学史家ギンガリッチが、世界に残る初版と第2版をほぼすべて調べたところ、当時の多くの天文学者が余白にびっしりと書き込みをしており、熱心に読まれていたことが分かった。

ニコラウス・コペルニクスの肖像
コペルニクスWikimedia Commons Unknown author Unknown author · Public domain

体系としては、まだ古いところを多く残していた。コペルニクスは天体が完全な円を描いて回るという考えにこだわり、そのために結局、周転円をいくつも使わなければならなかった。計算の精度は、プトレマイオスの体系とさほど変わらない。地球が動くことの直接の証拠も、まだ無かった。中心を入れ替えた、という一点が大きかった。

その一点が、次の世代を動かした。ティコ・ブラーエはそれまでにない精密な観測を積み重ね、その記録を受け継いだケプラーは、惑星が円ではなく楕円を描いて回ることを見つけた(ケプラーの法則)。ガリレオは望遠鏡で木星の周りを回る衛星を見つけ、すべてが地球の周りを回っているわけではないことを示した。1616年、ローマの教会はついにこの本を、訂正されるまで読むことを禁じる。ガリレオが地動説を唱えて裁かれるのは、その後のことである(ガリレオの異端審問)。数か所の文言を直した版は1620年に許されたが、禁書の目録から名が消えるのは19世紀になってからだった。

ケプラーの法則に関わる図版:Kepler laws diagram
ケプラーの法則Wikimedia Commons Hankwang · CC BY 2.5

地球が宇宙の中心から外れたことは、しばしば、人間が特別な場所を失った出来事として語られる。ただ、当時の宇宙観では、地球は天から最も遠く、重くて変わりやすいものが溜まる、宇宙の底のような場所でもあった。地球を天の星々の仲間に加えたことは、見方によっては地球を引き上げることでもあった。いずれにせよ、見た目の明らかさよりも、理屈の整い方を信じて世界の姿を描き直したこの本は、のちに「コペルニクス的転回」という言葉を生み、考え方を根本からひっくり返すことの代名詞になった。

出典(2)

ウィリアム・H・マクニール(増田義郎、佐々木昭夫 訳) 『世界史』第III部 西欧の優勢(1500〜1850年)
ジョゼフ・ニーダム(東畑精一、藪内清 監修) 『中国の科学と文明』「なぜ近代科学はヨーロッパで生まれたのか」という問いの対岸

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