できごと

ファロスの灯台

The Lighthouse of Alexandria
BC280年頃
重要度 4
古シベリアの狩猟採集民コイサンサハラの牧畜遊牧民フィン・ウゴル系タイガの狩猟採集民西アフリカの穀作農民マウリヤ朝セレウコス朝プトレマイオス朝アンティゴノス朝ガリア諸部族カルタゴカルタゴメロエケルト系の人びとPlain-Pottery cultureBrushed Pottery cultureマケドニアカッパドキアカタバーンBell-shaped burials cultureアトロパテネナバテア王国ペルガモン王国リュシマコスの王国カッサンドロスの王国Milograd cultureハドラマウトローマアルメニアEastern Masurian cultureポントス王国ボスポロス王国ブレンミュエスサバア王国ギリシア諸ポリスDamotPomeranian cultureBC280年頃アレクサンドリア
このできごとには、まだ自由に使える図版が見つかっていません。 代わりに、このデータベースが持っているBC280年頃の版図を描いています(37勢力)。

概要

ナイル三角州の海岸は低く平らで、沖から陸の位置が分からない。プトレマイオス朝が、港の入口のファロス島に塔を建てた。高さは百メートルを超えたと伝えられ、四角、八角、円柱の三段。頂に火を焚き、金属の鏡で沖へ投げた。昼は煙を目印にした。設計者ソストラトスの名が、王の名の下の石に隠して刻まれていたという逸話がある。千五百年立ち、地震で崩れた。1994年、港の海底からその石材が見つかっている。ファロスの語が、多くの言語で灯台を意味する語になった。

場所

アレクサンドリア
31.20°N 29.92°E · エジプト

本文

ナイル三角州の海岸は、低く平らである。沖から眺めても、山も岬も目印になるものが無く、どこに港があるのか見分けがつかない。そのうえ沖には浅瀬や岩礁が隠れている。紀元前331年にアレクサンドリア建設が行われて以来、アレクサンドリアは地中海でも有数の港町になりつつあった。エジプトの小麦が、ここから地中海の各地へ積み出される。船を安全に港へ導く目印が、どうしても必要だった。

塔の建設は、プトレマイオス1世の治世の末、紀元前297年ごろに始まり、その子プトレマイオス2世の時代、紀元前280年ごろに完成したとされる。場所は港の入口に浮かぶファロス島である。島は「ヘプタスタディオン」と呼ばれる長さ七スタディオン(約1.2キロ)の堤道で本土と結ばれていた。この堤のまわりに土砂がたまり、島はやがて陸続きの半島になった。同じ頃、町にはアレクサンドリアの図書館も建てられ、プトレマイオス朝の都は学問と交易の中心として栄えていく。

16世紀にヘームスケルクが描いた想像図
16世紀にヘームスケルクが描いた想像図Wikimedia Commons Maarten van Heemskerck · Public domain

塔そのものは残っていない。その姿は、古代やアラブの記述、塔を刻んだ硬貨やモザイクの図から推し量られている。いちばん下は四角い大きな塔で、全体の大部分を占め、内部には螺旋状の坂があって、驢馬が燃料を運び上げたともいわれる。その上に八角形の段、さらに円柱形の段が重なり、頂で火を焚いた。最上部には神の像が立っていたと伝えられる。高さについては記録に幅があるが、のちのアラブの記述などから百メートル前後、あるいはそれ以上と推定されている。古代の建造物としては、ギザの大ピラミッドに次ぐ高さだったとみられ、のちに世界の七不思議の一つに数えられた。七不思議の中では、大ピラミッドに次いで長く立っていた。

どうやって光らせていたのかは、はっきりしない。火を焚いたことは確かだが、燃料が木だったのか油だったのかは分からない。エジプトは木の乏しい土地で、燃料の確保はいつも課題だったはずである。磨いた金属の鏡で光を沖へ送ったとも伝えられる。中世のアラブの書き手には、その鏡で遠くの船が見えたとか、敵の船を焼くことができたと書いた者もいるが、後者は明らかに伝説で、前者も疑わしい。昼間は煙を目印にしたとされる。光が何十キロも先から見えたという記述もあるが、高さ百メートルの火でも、地球の丸みのために四十キロ近くで水平線の下に沈む。実際にはそれより手前で、光の弱さのために見えなくなっていただろう。

中国のテーマパーク、長沙世界之窓に縮尺再現された大灯台
中国のテーマパーク、長沙世界之窓に縮尺再現された大灯台Wikimedia Commons No machine-readable author provided. Dawidbernard~commonswiki assumed (based on copyright claims). · Public domain

設計者は、クニドスのソストラトスとされる。2世紀の著述家ルキアノスは、こんな話を伝えている。ソストラトスは塔に自分の名を刻みたかったが、そこには王の名を刻まねばならない。そこで彼は、石に自分の名を深く彫り、その上を漆喰で覆って、漆喰の上に王の名を書いた。年月がたって漆喰が剥がれると、下から「クニドスのソストラトスが、船乗りたちのために、救いの神々にこれを捧げる」という銘が現れた、というのである。話の真偽は確かめられないが、ソストラトスの名を記した献辞が塔にあったこと自体は、ほかの古い記述からもうかがえる。

塔は、千五百年以上立ち続けた。7世紀にアラブがエジプトを征服した後も、灯台として使われ、修理が重ねられた。だが、この一帯は地震が多い。10世紀の地震で上の部分が崩れ、14世紀初めの大きな地震で決定的に壊れた。旅行家イブン・バットゥータは、1326年に訪れたときには塔の一面が崩れていたと書き、1349年に再び訪れたときには、もう中に入ることもできない廃墟になっていたと記している(イブン・バットゥータの旅)。1477年、マムルーク朝のスルタン、カーイトバーイがその跡地に要塞を築き、灯台の石材の一部もそこに使われたとされる。この要塞は、いまもアレクサンドリアの港に立っている。

イブン・バットゥータの旅に関わる図版:MS Arabe 2291 تحفة النظار في غرائب الأمصار وعجائب الأسفار (cropped)
イブン・バットゥータの旅Wikimedia Commons أبو عبد الله محمد بن جزي ابن بطوطة · Public domain

1994年、フランスの考古学者ジャン=イヴ・アンプルールらの調査隊が、要塞の沖の海底を調べ、巨大な石材や彫像、スフィンクスなど数百点を見つけた。数十トンもある花崗岩の石材の一部は、灯台の一部だったと考えられている。多くはいまも海の底にあり、引き上げて展示するか、海の中のまま見せる博物館にするかが議論されてきた。

ファロスの塔は、灯台という建物の原型になった。のちの灯台は、石の塔の上で火や油を燃やし、やがて反射鏡やフレネル・レンズで光を遠くへ送るようになり、嵐の海の岩の上にも建てられていく(沖の岩に立つ灯台)。そしてファロスという島の名は、多くの言語で灯台そのものを指す言葉になった。フランス語のファール、イタリア語やスペイン語のファーロ、ポルトガル語のファロール、ルーマニア語のファール。二千三百年前に港の入口に建てられた一つの塔の、その島の名が、いまも世界の海岸に灯る光の名として残っている。

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