人物

オットー1世

Otto I
AD912年11月23日 – AD973年5月7日(享年60)
東フランク王国重要度 3

概要

マジャール人を破り、教皇から帝冠を受けた。のちに神聖ローマ帝国と呼ばれる枠組みの始まり。

関わったできごと(2)

レヒフェルトの戦いAD955年 · 総指揮オットー1世の戴冠AD962年2月2日 · 当人

本文

912年11月23日、ザクセン公ハインリヒの子として生まれた。父は919年に東フランクの王に選ばれ、ザクセン家(のちのオットー朝)を開く。カロリング家の血が東で絶えたあと、王位はフランク人ではなくザクセン人の手に移っていた。少年のころの929年頃、イングランド王家の娘エドギタ(エドワード長兄王の娘)と結婚している。王家の格を外から補う縁組だった。

オットー1世の肖像
オットー1世の肖像Wikimedia Commons Axel Mauruszat · Public domain

936年に父が死ぬと、アーヘンで王として戴冠した。場所に意味がある。カール大帝の宮廷があった町で、その玉座に座ることで、自分がカール大帝の後継者であることを示した。ただ、即位後の数年は反乱の鎮圧に追われる。異母兄タンクマル、弟ハインリヒ、そして有力な公たちが次々に背いた。王といっても、各地の公を力で従わせなければ名ばかりになる時代だった。

951年、イタリアへ遠征した。イタリア王の未亡人アーデルハイトが幽閉されていたのを救い出して妻とし、ランゴバルドの王を名乗った。最初の妻エドギタは946年に亡くなっている。ところが、この遠征とアーデルハイトとの再婚が、先妻の子リウドルフを不安にさせた。953年、リウドルフは娘婿のロートリンゲン公コンラートと結んで反乱を起こす。王国が割れたところへ、954年、マジャール人が攻め込んできた。

マジャール人は9世紀末にパンノニアに定住して以来(マジャール人のパンノニア定住)、騎馬で西へ襲撃を繰り返していた。955年8月10日、アウクスブルク近くのレヒフェルトの戦いで、オットーはこれを破った。反乱を起こしていたコンラートも和解して加わり、この戦いで戦死している。同時代の修道士ヴィドゥキントは、勝利のあと兵たちが戦場でオットーを「皇帝」と歓呼した、と書いている。50年以上続いた西への襲撃は、ここで止まった。マジャール人はやがて定住を深め、キリスト教を受け入れてハンガリー王国を作っていく。

マジャール人のパンノニア定住に関わる図版:Tabula hungariae
マジャール人のパンノニア定住Wikimedia Commons Lázár deák (Lazarus secretarius) · Public domain

その勝利で固めた権威をもって、962年2月2日、ローマで教皇ヨハネス12世から帝冠を受けた(オットー1世の戴冠)。800年のカール大帝の戴冠から162年になる。教皇は、ローマを脅かすイタリアの諸侯に対抗するために皇帝を必要としていた。ところが戴冠の翌年には、その教皇がオットーに背いて敵と結んだ。オットーは公会議を開いてヨハネス12世を廃位し、新しい教皇を立てた。皇帝が教皇を選び、退ける。この関係が、のちに逆転を求められることになる。

統治のやり方で特徴的なのが、聖職者を使ったことだ。司教と修道院長に領地と、裁判や徴税の権限を与えた。世俗の諸侯と違って、聖職者は(建前のうえでは)妻子を持たず、領地を世襲しない。死ねば、後任を選ぶ力が王に戻る。公の家が領地を子に継がせて半ば独立していくのを抑える手立てになった。後世、これは「帝国教会政策」と呼ばれる。ただ、当時そういう体系的な政策があったのか、王が個々の司教を頼っただけなのかについては、研究者のあいだで議論がある。

オットー1世の印章
オットー1世の印章Wikimedia Commons Otto Posse · Public domain

東のスラヴ人への布教も進めた。968年、エルベ川のほとりのマクデブルクに大司教座を置いている。晩年の972年には、息子オットー2世とビザンツの皇女テオファヌの結婚をまとめた。東ローマの皇帝に、西の皇帝として認めさせるための縁組だった。973年5月7日、メムレーベンで死去。60歳。マクデブルクの大聖堂に、最初の妻エドギタと並んで葬られた。

後世「大帝」と呼ばれる。彼の帝冠から始まる枠組みは、のちに神聖ローマ帝国と呼ばれるようになるが、「神聖」の語が皇帝の称号に付くのは12世紀、「神聖ローマ帝国」の形になるのは13世紀のことで、オットー自身はその名を知らない。そして、司教の任命権を王が握る仕組みは、100年後、教会の改革を求める教皇と皇帝の正面衝突を招く。1077年のカノッサの屈辱へ続く道は、ここで敷かれた。

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