アルシングの開設
概要
野外に集まって法を読み上げる集会。いまも続く議会のうち、最も古い部類に入る。
場所
64.26°N -21.13°E · アイスランド
本文
9世紀の終わりから、ノルウェーやブリテン諸島の北から、人々が船でアイスランドへ渡った(アイスランド入植)。ノルウェーで王権を強めたハーラル美髪王の支配を嫌って島へ来た、と後の物語は語る。60年ほどのあいだに、住める海岸の土地はおおかた人で埋まった。島には王がいない。各地の有力者が自分の農場を中心に人々を束ねていたが、土地や家畜、殺人をめぐる争いを裁く場が島全体には無かった。
伝承によれば、ウルヴリョートという男がノルウェーへ渡って法を学び、帰ってきて島の法をまとめた。集会の場所を探したのは、その兄弟のグリームだったという。選ばれたのは、島の南西にある溶岩台地の広い窪地だった。そこは「集会の野」を意味するシンクヴェトリルと呼ばれるようになる。930年ごろ、最初の全島集会(アルシング)がここで開かれた。

集会は毎年夏、2週間ほど開かれた。島じゅうから首長とその従者が馬で何日もかけて集まり、芝土と石で囲った仮小屋に寝泊まりした。中心になったのは、岩の割れ目を背にした「法の岩」である。そこに「法の暗誦者」が立ち、法を声に出して読み上げた。
書かれた法典は無かった。暗誦者は3年の任期で選ばれ、毎年法の3分の1を読み上げて、任期のあいだに全部を一巡した。人々は耳で法を聞き、覚えた。法が初めて文字に書き留められたのは、1117年から翌年にかけての冬だとされる。

議決の中心は、首長たちが加わる法の評議会だった。首長は初め36人いたとされ、のちに39人に増える。首長の地位は売り買いや譲り渡しもでき、従う側の農民も、どの首長につくかを自分で選べた。10世紀後半には、島を四つに分けた地区ごとの法廷が置かれ、11世紀の初めにはその上に第五の法廷が加わった。
ただ、判決を執行する役所は無かった。勝った側が、自分と仲間の力で判決を実行するしかない。最も重い罰は追放で、追放された者は殺されても罪にならなかった。『ニャールのサガ』をはじめとするアイスランドのサガには、法の岩の前で弁論が戦わされ、それでも収まらない争いが流血の復讐へと転がっていく場面が繰り返し描かれる。
アルシングの判決は、島の外への旅立ちも生んだ。殺人を重ねた赤毛のエイリークは、地域の集会で3年の追放を言い渡され、その間に西の海の向こうの大きな島を探って、緑の島グリーンランドと名づけた。その子レイフはさらに西へ進み、北アメリカの岸に至った(ヴィンランド到達)。法の外に置かれた者が、新しい土地を見つけることもあった。
アルシングが最も大きな決断を下したのは、1000年のことだった。キリスト教を受け入れるか、古い神々を守るかで、島は二つに割れかけた(アイスランドのキリスト教受容)。暗誦者の裁定に委ね、法は一つでなければならないとして島全体が改宗した。内戦を避けるための選択だった。

集会はただの裁判の場ではなかった。2週間のあいだ、遠くに住む親族や友人が顔を合わせ、縁談がまとまり、品物が取り引きされ、知らせが島じゅうに広まった。人の少ない島で、ばらばらに暮らす農場の人々が、自分たちを一つの社会だと感じる場でもあった。
13世紀に入ると、有力な一族が首長の地位を買い集めて争う内乱の時代になる。歴史家でもあったスノッリ・ストゥルルソンは、法の暗誦者を務めた後、この争いの中で殺された。1262年から64年にかけて、島はノルウェー王に服属する。アルシングは法廷としての役目を残したが、法を作る力は王の側に移った。
1800年にはその法廷も廃止された。1845年に首都レイキャヴィークで諮問の議会として復活し、1874年に立法の権限を取り戻す。1944年、アイスランドが共和国になることを宣言したのは、かつての集会の野だった(アイスランド共和国の成立)。
いまも続く議会のうち、最も古い部類に入る。途中で途切れた時期があるため、「最古」の名乗りをめぐってはマン島の議会との間で言い分が分かれる。シンクヴェトリルの窪地は、北アメリカとユーラシアのプレートが引き離される地溝の上にあり、2004年に世界遺産になった。