浮野の戦い
概要
織田信長が尾張上四郡の岩倉織田氏を破った戦い。鉄砲の橋本一巴と弓の林弥七郎の一騎打ちが『信長公記』に残る。
場所
35.31°N 136.85°E · 日本・愛知県一宮市千秋町浮野
関わった人(1)
織田信長AD1534年–AD1582年6月21日 · 尾張統一を進める織田弾正忠家の当主本文
16世紀半ばの尾張は、守護の斯波氏の下で、守護代の織田家が二つに分かれて国を治めていた。下四郡を清洲の織田大和守家が、上四郡を岩倉の織田伊勢守家が押さえ、織田信長の織田弾正忠家は、もともと清洲の家の家老筋にすぎなかった。信長は父の信秀の死後、萱津の戦いで清洲の織田信友を破り、弟の信勝との争いにも勝って、守護の斯波義銀まで追い出した。弟の信勝との争いでは、1556年の稲生の戦いで、信勝についた家老林秀貞の弟・林美作守を、信長自身が討ち取ったと『信長公記』は記す。浮野で名を残す林弥七郎は、この林美作守の縁者と言われる。こうして残った大きな敵が、岩倉の織田氏だった。
岩倉の当主の織田信安は、信長の父の妹を妻とし、若いころの信長とも交流があった人物である。しかし斎藤道三が子の義龍に討たれた長良川の戦いのころには、義龍と手を結んで信長と敵対していた。その信安は、長男の信賢を遠ざけて次男に家を継がせようとし、逆に信賢に追放された。岩倉の家中が割れたのを見た信長は、犬山城の織田信清に姉を嫁がせて味方につけ、戦いに備えた。

1558年(永禄元年)、信長はおよそ2000の兵を率いて、岩倉城から北西へおよそ4キロの浮野の地で信賢の軍およそ3000とぶつかった。戦いは激しく続いたが、信清の援軍およそ1000が着くと形勢は傾き、信賢の軍は崩れた。死者は1200を超えたとされ、信賢は岩倉城へ逃げ帰った。翌年、信長は岩倉城を数か月囲んで降伏させ、尾張の大半を手に入れた。信賢のその後は分かっていない。先に追放されていた父の信安はのちに許され、安土の摠見寺の住職になったと伝えられる。味方についた犬山の信清も、やがて信長と対立して追われ、尾張は信長一人のものになった。なお、浮野の戦いを1557年とする説もある。
この戦いは、一つの一騎打ちで後世に知られている。信長の家臣・太田牛一の『信長公記』によると、岩倉方に林弥七郎という弓の名手がいた。退いていく弥七郎の前に、信長方の鉄砲の名手・橋本一巴が立ちはだかった。二人はもともと互いを知る間柄で、ここで勝負をつけることになった。弥七郎は大きな矢尻を付けた矢をつがえて振り返りざまに放ち、一巴は鉄砲に二つ玉を込めて撃った。矢は一巴の脇の下に深く刺さり、弾は弥七郎に当たった。一巴は信長に鉄砲を教えた師とも伝えられる人物である。
深手を負って倒れた弥七郎のもとへ、信長の小姓の佐脇藤八(良之)が駆け寄って首を取ろうとした。弥七郎は倒れたまま太刀を抜き、藤八の肘を斬りつけたが、最後は討ち取られた。藤八は前田利家の弟である。『信長公記』は、この一部始終を細かく書き留めている。弓と鉄砲が同じ戦場で向き合っていた時代を、そのまま切り取ったような場面である。当時の火縄銃は、一発撃つと弾と火薬を込め直すのに時間がかかり、雨にも弱かった。そのかわり、当たれば鎧を貫く力があり、扱いを覚えるのも弓より早い。弓は続けて射ることができるが、名手になるには長い修練が要る。二人の勝負は、そのまま二つの武器の長所と短所のぶつかり合いだった。
鉄砲伝来から15年。鉄砲はすでに尾張の戦場で名手を生むほどに広まっていたが、弓もまだ十分に戦える武器だった。この一騎打ちが相討ちに終わったことは、その時代の釣り合いを物語っている。岩倉方には、のちに豊臣政権下で大名となる山内一豊の父や、堀尾吉晴の父も加わっていた。
浮野の勝利で、信長は尾張の統一へ大きく近づいた。その2年後、今川義元の大軍を桶狭間の戦いで破り、美濃へ、そして京へと勢力を伸ばしていく。浮野の戦いは、その出発点となった尾張の内戦の、ほぼ最後の大きな戦いだった。この時期の信長について、いちばん頼りになる記録が『信長公記』であり、浮野の一騎打ちのような細かな場面が残ったのも、その記録の細やかさのおかげである。