ロブスター戦争
概要
1961〜63年、ブラジル北東部沖のイセエビ漁をめぐるブラジルとフランスの争い。両国の軍艦がにらみ合ったが、砲火は交えなかった。
場所
-8.05°N -34.90°E · ブラジル・ペルナンブーコ州
関わった人(1)
シャルル・ド・ゴールAD1890年11月22日–AD1970年11月9日 · フランス大統領として漁船の護衛に軍艦を送る本文
ロブスター戦争は、1961年から1963年にかけて、ブラジルとフランスのあいだで起きたイセエビ(ロブスター)漁をめぐる争いである。1発の砲弾も撃たれなかったが、1963年2月には両国の軍艦が大西洋でにらみ合い、あわや戦争かという騒ぎになった。争点は「イセエビは泳ぐのか、海の底を歩くのか」だった。
争いの裏には、フランスの植民地帝国の解体があった。1960年前後にフランスはアフリカの植民地のほとんどを手放し、モーリタニア沖などのよい漁場も失った。フランス北西部ブルターニュの漁港カマレの漁師たちは、新しい漁場としてブラジル北東部の沖に目をつけた。

1961年3月、フランスは調査の名目でブラジル北東部の沖での操業の許可を得た。ブラジル側は3隻に限り、海軍の監督官を乗せることを条件としたが、実際には4隻が来て、調査ではなくイセエビをとってヨーロッパへ運んでいた。11月にも許可が出たが、同じことが繰り返された。ペルナンブーコ州の地元の漁師たちが、フランスの大きな船にイセエビをとられていると訴え、ブラジル海軍はコルベット艦を出してフランス船に沖へ出るよう求め、ときには拿捕もした。
1962年の初めには、ブラジルのコルベット艦イピランガが、北東部の沖16キロほどでフランスの漁船カシオペを拿捕している。この年、両国は外交の場で争った。ブラジルは、イセエビは大陸棚の海底を這って暮らす生き物で、大陸棚の資源は沿岸国のものだと主張した。フランスは、イセエビは跳ねて泳ぐのだから魚と同じで、公海ならどこの国の船がとってもよいと主張した。フランスは公海の漁業を定めた1958年のジュネーヴの条約を持ち出したが、実はどちらの国もその条約に署名していなかった。ブラジル海軍の軍人が「跳ねて動くからイセエビが魚だというなら、跳ねるカンガルーは鳥ということになる」と皮肉ったという話はよく知られている。
このころのブラジルは政治の揺れが大きかった。1961年8月にクアドロス大統領が就任から半年あまりで辞任し、副大統領のジョアン・グラールが後を継いだ。国内の改革をめぐって軍や保守派との対立が深まるなか、外国の漁船に強い態度を示すことは、国民の支持を集める意味も持っていた。
1963年に入ると、シャルル・ド・ゴール大統領のフランスは漁船を守るために海軍を動かした。2月11日、空母クレマンソーを中心とする艦隊が南フランスのトゥーロンを出て西アフリカへ向かい、そのうち駆逐艦タルトゥが単独でブラジル沖へ向かった。ブラジルの外相は、フランスの態度は認められない、イセエビはとらせない、と応じた。
ブラジルはカーニバルの直前の2月22日、海軍と空軍に動員をかけた。休暇中の兵が呼び戻されたが、北東部の港には弾薬も燃料も足りなかった。空軍の偵察機がタルトゥを見つけて昼夜付きまとい、リオデジャネイロから駆けつけた駆逐艦や潜水艦の部隊が、タルトゥと漁船の一団を見張った。アメリカは、ブラジルに供与した兵器を相手に向けることは認められないと釘を刺した。外交の交渉が進められ、3月10日にフランスの艦船はブラジル沖を去った。去り際、ブラジルの駆逐艦はフランス艦に「よい航海を」と信号を送ったという。
決着は翌年に持ち越された。1964年にブラジルで軍事クーデターが起きたのち、同年12月10日に両国は協定を結んだ。フランスの漁船26隻に、5年を超えない期間、決められた海域でのイセエビ漁を認め、そのかわり利益の一部をブラジルの漁師に渡すという内容だった。沿岸の国が沖合の資源に権利を持つという考え方は、その後の国連海洋法条約で排他的経済水域として定められていく。フランス国内でも、操業を妨げられた船主が政府に補償を求めて争ったが、1966年に行政裁判所は訴えを退けている。ロブスター戦争は、その考え方が固まる前に、海の資源をめぐって国どうしがぶつかった小さな、しかし本気の争いだった。