人物

ジャン=ジャック・ルソー

Jean-Jacques Rousseau
AD1712年6月28日 – AD1778年7月2日(享年66)
ジュネーヴ重要度 4

概要

人は自由なものとして生まれた、と書いた。社会契約と人民主権の考えが革命の言葉になる。子どもの教育を論じながら、自分の五人の子は孤児院に置いた。

関わったできごと(2)

ルソー『エミール』AD1762年 · 書いたフランス革命1789年 · 思想の元

本文

1712年6月28日、ジュネーヴに生まれた。ジュネーヴは、宗教改革者カルヴァンが厳格な教会の町に作り変えた共和国である(カルヴァンのジュネーヴ)。父は時計職人で、母は彼を産んで9日後に亡くなった。父は妻の面影を息子に重ね、二人で夜通し小説を読み明かし、燕の鳴き声で朝に気づくこともあったと『告白』にある。10歳のとき、父は喧嘩沙汰で町を追われ、息子は親戚に預けられた。

カルヴァンのジュネーヴに関わる図版:CalvinStatue
カルヴァンのジュネーヴWikimedia Commons Serein · Public domain

彫金師の徒弟に出されたが、親方に殴られる日々だった。16歳のある日曜日、郊外で遊んでいて門限に遅れ、町の門が閉まっていた。少年はそのまま町に戻らず、放浪に出た。

サヴォワのアヌシーで、ヴァラン夫人という年上の女性に拾われた。彼女の世話でカトリックに改宗し、召使い、音楽教師、家庭教師などをしながら各地を転々とした。後年、夫人と過ごした田舎の家での日々を、生涯でいちばん幸せだった時期として回想している。独学で音楽、哲学、数学、ラテン語を学んだのもこの頃である。

30歳でパリへ出た。自分が考えた数字による楽譜の書き方を学会に持ち込んだが、相手にされなかった。それでも、同年輩のドゥニ・ディドロと親しくなり、彼が編む『百科全書』に音楽の項目を書いた。宿屋で働いていた女性テレーズ・ルヴァスールと暮らしはじめ、二人の間には5人の子が生まれた。ルソーは、その子らを一人残らず孤児院に預けた。当時の孤児院で、乳児の多くは育たずに死んでいた。

『百科全書』に関わる図版:Encyclopedie de D'Alembert et Diderot - Premiere Page - ENC 1-NA5
『百科全書』Wikimedia Commons Long List of Contributors to the Encyclopédie · Public domain

1749年夏、投獄されていたディドロに面会するため、パリ郊外のヴァンセンヌへ歩いて向かう途中、新聞でディジョンの学会の懸賞論文の題を見た。学問と芸術の進歩は道徳を清めたか、腐らせたか。ルソーは道端の木の下に座り込み、涙を流すほどの閃きに打たれたと後に書いている。答えは、文明は人を堕落させた、だった。翌年この論文が一等を取り、37歳の無名の男は一躍、論争の的になった。

1752年には、自作のオペラ『村の占い師』が国王の前で上演されて大成功した。国王が年金を与えようとしたが、ルソーは翌日の謁見に行かず、これを受けなかった。人に養われて自由を失うのを嫌ったのだと本人は説明している。なお、日本の唱歌「むすんでひらいて」の旋律は、このオペラの曲に由来するとよく言われるが、経緯にははっきりしない点がある。

ジャン=ジャック・ルソーの肖像、ド・ラ・トゥール画
ジャン=ジャック・ルソーの肖像、ド・ラ・トゥール画Wikimedia Commons Maurice Quentin de La Tour · Public domain

1755年の『人間不平等起源論』で、ルソーは問いをさらに掘り下げた。自然のままの人間は、孤立して暮らし、憐れみの心を持ち、不平等をほとんど知らなかった。最初に土地に囲いを作り「これは私のものだ」と言い、それを信じるお人好しを見つけた者こそ、社会の本当の創始者だ、と書いた。私有と、それを守る法と政府が、不平等を固定したというのである。本を贈られたヴォルテールは、読むと四つ足で歩きたくなると皮肉った。二人の不仲はここから深まっていく。

1762年、二つの本を出した。ルソー『社会契約論』は「人は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鎖につながれている」と始まる。人々が互いに約束を結んで一つの共同体を作り、その全員の「一般意志」が主権を持つとき、人は法に従いながら自由でいられる。主権は王ではなく人民にある、という考えを、これほどはっきり書いた本はそれまで無かった。

ルソーの生家
ルソーの生家Wikimedia Commons myself · Public domain

もう一つのルソー『エミール』は、架空の少年エミールを育てる形で教育を論じた本である。子どもは小さな大人ではない。年齢ごとの成長に合わせ、本を詰め込むより、自然の中で自ら経験させよ、と説いた。この本は近代の教育に大きな影響を与えた。だが、宗教について書いた部分が教会を怒らせ、パリの高等法院は本を焼かせて著者の逮捕を命じた。生まれ故郷のジュネーヴでも二冊とも焼かれた。

ここからルソーの逃亡の生活が始まる。スイスの山村に移ると、牧師に煽られた村人に家へ石を投げ込まれた。1766年、哲学者デイヴィッド・ヒュームの招きでイギリスへ渡ったが、ヒュームが自分を陥れようとしていると思い込み、激しく決裂した。この頃から、自分を迫害する陰謀が世界中に張り巡らされているという思いに苦しむようになる。

1735年のパリの地図
1735年のパリの地図Wikimedia Commons Delagrive, Jean (1689-1757). Auteur du texte Homann (Héritiers de). Auteur du texte · Public domain

フランスへ戻ってからは偽名で暮らし、楽譜を写す仕事で生計を立てながら、自分の生涯をさらけ出す『告白』を書いた。子どもを孤児院に入れたことも、そこで自ら告白している。晩年の『孤独な散歩者の夢想』は、パリ郊外を歩きながら植物を集め、心に浮かぶことを書き留めた未完の随想である。

1778年7月2日、パリ北方のエルムノンヴィルにある侯爵の領地で亡くなった。66歳。同じ年の5月には、ヴォルテールが世を去っていた。遺体は庭園の池に浮かぶポプラの小島に葬られ、多くの人が巡礼に訪れた。

若き日のデュパン夫人(英語版、フランス語版)
若き日のデュパン夫人(英語版、フランス語版)Wikimedia Commons Jean-Marc Nattier · Public domain

11年後にフランス革命が起きると、革命家たちはルソーの言葉を旗印にした。マクシミリアン・ロベスピエールは彼を師と仰いだ。1794年、国民公会はルソーの遺骸をパンテオンに移した。人民主権の思想は近代の民主政の土台になった一方で、一般意志の名で少数者を押しつぶす全体主義の源流だとする批判も根強い。自分の子を手放した男が近代の子ども観を作り、人づきあいに失敗し続けた男が共同体の理論を書いた。その矛盾ごと、ルソーは読まれ続けている。

動画(1)

天才思想家にして変態紳士・ルソー【COTEN RADIO #49】歴史を面白く学ぶコテンラジオ_COTEN RADIOフランス革命の思想的な土台として、ルソーを一回かけて話している
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